桑名市高塚町と西方の間の谷間に、山頂付近の池を源流とした小川が、古代からの竹林の中を流れていました。

 

 

聖衆寺付近の小川は「式部泉」と呼ばれ、「久波奈名所図会 上巻」(1802年)にも載っています。

 

 

式部泉 

北別所村谷川の名なり。桑名雑記云、俚説和泉式部硯の水と云。又云。山本式部籠城の旧地とも云、龍寶山記云、此流水を式部泉といひて和泉式部か硯にそそぎしとも、又長嶋一揆の時江州住人山本式部何某と云者、織田将軍の後詰せんとて西別所の城棚に籠りしを佐久間蜂屋木下丹羽等の諸将の為に討れて、東別所にて梟せられし時、此水にて首を流し故式部泉といふ抔異説あり。

 

         <式部泉源流の池>

 

    <この古道の右手(南)を流れていた>

 

      <令和5年2月現在の式部泉跡>

 

式部泉源流の池も、静寂な竹林も、そこを流れていた小川などすべてが造成工事により消失しました。

 

和泉式部は平安時代中期の歌人で、和泉式部日記の作者とされています。

 

また、小倉百人一首56番に

「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」 

とあります。

 

彼女は紫式部と一緒に宮中で藤原道長の長女彰子に仕えていて、非凡まれなる才女でしたが、色恋沙汰も多くありました。

 

和泉式部の所縁の地は、その事実は別にして全国に数多くあり、四日市曽井町にも、こんな逸話が残ります。

 

和泉式部は、まれにみる美人であったが顔に大きな黒あざがあり、式部はそれを悩み清水寺の大悲尊に願いをかけた。
「東光山観音寺前の清水で洗えば、あざは消えるであろう」というお告げを受け、都から曽井の観音寺に来て、清水で顔を洗ったところ願いは叶い、あざは消えたという。

 

   

        <和泉式部化粧の水>