野村増右衛門は、正保3年(1646)員弁郡嶋田村(現 桑名市島田)に生まれ、下級武士の身分から藩主松平定重にも重用され、
数年で異例な出世を果たし、その勢いは家老を凌ぐものとなりました。
その間、元禄の大火後の城の再建、街の復興・新田開発・河川工事・神社仏閣造営修理・道路橋梁修復・山林造成など、多大な功績を残しました。

宝永7年(1710)に公金の横領などを問われ死罪となります。
この時、一族44人も死刑となり、また関係者も追放されたり免職されたりして、罪人の数は370人以上に及んだと云われます。

この事件が幕府に知れ、藩主松平定重は越後高田藩に移封(実質上の左遷)されました。
詳しくは Wikipedia 「野村騒動」 などをご覧ください。

埋葬関連の簡単な時系列です。
宝永7年(1710年) 大山田川原にて打ち首になる
文化6年(1809年) (墓) 最勝寺(桑名市萱町)境内に建立される
文政6年(1823年) 松平定永により、無罪として赦免、名誉回復                                   された(死後113年後)
文政10年(1827年) (地蔵塔・供養塔)大山田川原(処刑場)に

                            供養地蔵塔と、同時に処刑された44名の

                            供養塔が建立される
明治42年 (1909年) (地蔵塔・供養塔)大山田村屠牛場を建設す                               ることになり岸西庵(大正寺)へ移された
                この時、供養塔の下から処刑された増右衛                        門一族44名の法号実名が列記された銅板が                                                         発見される
昭和31年(1956年)(墓)島田自治会有志により島田櫛田神社境                                   内に移された
昭和45年(1970年)(墓)島田共同墓地に移され現在に至る

久波奈名所図会の 「野村塚」 に 「大山田川南堤ニアリ、越州定重公ノ家臣野村増右衛門吉正ガ死骸ノ捨所ナリ」 とあり、その場所の大山田川原の処刑場跡地は、大正寺から程近い桑名市東方町の通称・日物谷だと伝えられています。


伝処刑場跡地を日物谷橋南詰から望む

 

最初に墓が建てられた最勝寺


大山田川原から移された大正寺の野村増右衛門供養地蔵塔と、同時に処刑された44名の供養塔

 

島田にある櫛田神社本殿前の燈籠は、野村増右衛門が寄進したものと云われ、燈籠竿石には 「寶永弐乙酉年十一月吉日」 と刻まれています。

 

最勝寺から移された墓があった島田櫛田神社

 

櫛田神社より移された島田共同墓地の墓

表:法名釈 道意 宝永七庚寅年五月二十九日

裏:文化六己巳年改 野村増右衛門墓 依願 山崎蔀 建立

 

墓石の表面には処刑された日、裏面には最勝寺に墓が建てられた年が刻まれています。

 

島田地区には、野村増右衛門に関係する建造物などが他にもあります。

 

大日堂は野村増右衛門の持念仏と称される大日如来像を安置しているお堂です。

その傍らに2基の石碑が建っています。

 

大日堂

櫛田神社と本廟を示す石碑

 

島田の善教寺本尊(阿弥陀如来像)は野村増右衛門吉正の持念仏(弘法大師作と云う)であると云われています。

 

善教寺

 

北勢町川原に養泉寺という真宗大谷派のお寺が有ります。

ここは島田地区から北北西へ直線距離でも20Kmをこえる場所ですが桑名藩領でした。

このお寺の山門は、野村増右衛門屋敷にあった門で、桑名藩から下賜されて移築したものです。

改修はされていますが枡組などは当時のものだそうです。

 

養泉寺の山門

 

また、桑名市矢田の養泉寺に増右衛門と一族のものとされる位牌が安置されています。
北勢線の魅力を探る 野村増右衛門」 には、このブログには無い写真や処刑された増右衛門一族44名の法号実名も載っています。

 

尚、明治42年に見付かった増右衛門一族44名の法号実名が記された銅板は、地蔵菩薩座像の下に納められているそうです。

 

地蔵菩薩座像

 

野村増右衛門が元禄10年(1697)から移り住んだ、三之丸北大手門角の屋敷が、宝永5年(1708)の桑名御城下之圖に描かれています。

 

 

下は、その跡地を北大手橋から写した写真ですが、駐車場になっています。