●「フィギュアスケート全日本選手権女子FS結果と分析」
でも、
少し書きましたが、

紀平梨花さんは、
太田由希奈さんの二の舞に
なるのではないか、
心配なのです。

●紀平梨花さんは、
右足首のケガは、
完全に治癒しておらず、
以前、跳んでいた、
4S(4回転サルコウ)
3A(トリプルアクセル)
3Lz(3回転ルッツ)
は、
いまだに、
跳べていない状態です。

今回の全日本選手権も
フリー8位
総合11位
に終わっています。

◆今回(2022年)の
全日本選手権の
紀平梨花さんの
ジャンプ構成は、
3S+3T
3F
2A
3Lo+2T
3Lo
2A+2T+2Lo
3S

4Sも3Aも3Lzも
入っていません。

◆2020年の全日本選手権の
紀平梨花さんのジャンプ構成は
4S
3A
3F+1Eu+3S
3Lo
2A+3T
3F+3T
2A

◆2019年の全日本選手権の
ジャンプ構成は
3S
3A+3T
3F
3A
3F+2T
2A+2T+2Lo
3Lo

●2020年も2019年も
基礎点の高いジャンプ構成に
なっています。

●このまま、足首の
ケガが治らず、
4Sも3Aも3Lzも
跳べない状態が、
続くのではないか、
心配なのです。


●太田由希奈さんは、
◆2002年ジュニアグランプリファイナル優勝
◆2003年世界ジュニア選手権優勝
◆2004年四大陸選手権
シニアで初出場初優勝
という選手でした。

●太田由希奈さんは、
指先まで所作のきれいな
演技をする人で、
「氷上のバレリーナ」と
呼ばれていました。

旧採点方式は、
技術点よりも
芸術点が重視されましたから、
所作のきれいな、
太田由希奈さんが、
優勝したのですね。

●太田由希奈さんは、
2006年の
トリノオリンピックの
代表争いに加わるはずでした。

しかし、
◆右足首の骨挫傷という
選手として致命的な
怪我を負ってしまい
2005年は、全試合欠場で、
2006年の
トリノオリンピック代表争いに
加わることができませんでした。

◆これは、
紀平梨花さんが、
右足首のケガで、
2021年の全試合欠場で
2022年の
北京オリンピックの代表争いに
加わることができなかったことと、
同じです。

◆太田由希奈さんは、
2006年の年末の
全日本選手権に出場して
12位
2007年の年末の
全日本選手権に出場して
7位
その後、
右足首のケガが完治せず、
2008年に選手を引退しています。

◆紀平梨花さんは、
2022年の全日本選手権に
出場して、11位

なんか
紀平梨花さんは、
太田由希奈さんと
同じ道を
歩んでいるような気がします。

●紀平梨花さんは、
再び、
4S、3A、3Lzが、
跳べるように
なるのでしょうか?

太田由希奈さんのように、
志半ばで、引退なんて
ならないでしょうね。



●●紀平梨花「何のために練習してきたんだ...」。
全日本フィギュア11位で次戦の夢が断たれるも噛み締めた「幸せ」

12/25(日) 16:15配信

スポルティーバ

12月24日、全日本選手権フリーの紀平梨花 photo by Noto Sunao(a presto)

紀平梨花(トヨタ自動車)は、
2023年の世界選手権や四大陸選手権につなげたいという思いを持って全日本選手権に臨んだ。

目標は、ショートプログラム(SP)、
3回転ルッツを入れたフリーともにノーミスの演技をし、表彰台に上がることだった。

【写真】紀平梨花、宇野昌磨、村元哉中・髙橋大輔、坂本花織、本田真凜...全日本フィギュア2022フォトギャラリー

 11月のグランプリ(GP)シリーズ・フィンランド大会で
得点を192.43点まで戻していたなか、
今回の全日本選手権で
シニア3番目の得点が
197.21点(吉田陽菜)だったという結果を見れば可能性はあった。

しかし、紀平はケガをしている右足首の状態に不安が出て、目標を果たせなかった。

 練習拠点のカナダから帰国する2週間前に右足首に痛みが出て、

4~5日はジャンプの練習を休んだあと、ルッツの練習を始めたという紀平。

「帰国の2~3日前からは軸を締めて
3回転に挑戦し始めたけど、パンクしたり、怖いという感覚にもなってあまりうまくできなくて。
でも最後の日になって一発だけ決めることができました」

【自分の滑りではまったくないSPの演技】

 12月22日、
全日本のSPはGPシリーズと同じ
3回転サルコウ+3回転トーループ、
3回転ループの、
手応えを持っている構成で臨んだ。

 だが、流れをつくれなかった。

シニアの有力選手のなかでは
早い18番滑走。

最初のダブルアクセルは確実に決めたが、
次の3回転サルコウは、
4分の1の回転不足で
前につんのめる着氷になってしまい、
2回転トーループをつけるにとどまった。

 踏み切りで、6分間練習の時に自分がつくった穴にハマってしまい、
軸が傾いたジャンプになったのが原因だった。

「練習ではいいジャンプがたくさん跳べていて......。

本番では、動きのキレはそこまで
よくなかったけど、
それでもノーミスはできる状態でした。

それなのに、ミスをしてしまってすごく悔しかった。

その時点で焦りを見せないようにして、次のジャンプのことを考えましたが、
結局、最後のループもあまりいいジャンプではなかった」

 紀平がこう話すように
演技後半の3回転ループは
回転不足と判定されて
0.67点の減点。

片手側転をしてからのステップシークエンスは丁寧に滑り、
3本のスピンとともにレベル4をとったが、得点は60.43点。

 その時点の得点は前に滑っていたジュニア勢にも後れをとる6番目。

結局、3位に10.63点差の11位スタートと、苦しい状況になってしまった。

「ショートは自分の滑りではまったくないような演技になってしまい、何のために練習してきたんだと思いました」
と話す紀平。

「フリーで挽回するためには、
3回転ルッツを入れるしかない」と、
思いを強くした。


【構成を大きく変えて挑んだフリー】

 だが、2日後のフリー当日朝の公式練習では、
パンクとなった3回転ルッツで右足首を痛めてしまった。

「大きく骨折したわけではないので試合には出られたけど、
そのあとは右足に負担がかかる
3回転フリップの練習もやめました。

演技にも、これからの大会にも
支障が出るかなと思ったので
練習後にブライアン・オーサーコーチと相談して、
『3回転フリップを1本入れた、
フィンランド大会と同じ構成でいいと
思う』と言われて、
そうすることに決めました」

 当初は3回転フリップと
3回転トーループを2本、
3回転ルッツを1本入れる
予定だった構成を、
大きく変えての演技。

だが、フリーでも目指していたノーミスの滑りはできなかった。

 最初の3回転サルコウ+3回転トーループは、
サルコウが4分の1の回転不足になって
0.06点の減点。

右足首の痛みで不安を感じていた
3回転フリップは単発のジャンプでしっかり決め、
フリップからループに変えた
4本目のジャンプに2回転トーループをつけて連続ジャンプにした。

 だが、ルッツに変えてループにした
後半の3回転ループは
ステップアウトになって大きく減点。

セカンドからのジャンプを
3回転トーループ+2回転トーループから
2回転トーループ+2回転ループに
変えたダブルアクセルからの3連続ジャンプも、
難度は落としたにもかかわらず
アクセルが4分の1の回転不足で減点される結果に。

 フリーはフィンランド大会より
0.17点低い128.19点にとどまり、
合計は188.62点と
ステップアップは望めない得点だった。


【生まれ変わった自分を見せたい】

 結局、最終順位は
SPからは上げられず11位。

10位までにジュニアが
5人も入ってくる結果になったが、
紀平は四大陸選手権も選考条件の
「全日本選手権10位以内」を
クリアできず、次への夢は絶たれた。

「ショートを終えてから不安もあるなか、
2年ぶりの戻ってこられた全日本の舞台で、
自分の滑りをできたのは本当に幸せなことだなと、
今はすごく感じています。

でも、演技や点数にはぜんぜん満足していない。

もっともっと点数や構成を上げて、
『いつでもミスはしない』という自信を持って
挑めたらいいなと思うので。

また新たに生まれ変わったかのような
自分を見せていけるように頑張りたいです」

 演技終了後に右足首に触った理由を、
「6分間練習でも3回転フリップを跳んだ時にはすごく痛かった。
不安だったけど、
『よく持ってくれたな』
と思って触りました」と
説明した。

 今季の挑戦が一段落した今、
復活へ思いをこれまで以上に強くし、
その道をじっくりと歩もうとしている。

折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

最終更新:12/25(日) 16:15
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●●ウキペディア
◆(一部、省略しています)
●太田由希奈
(おおた ゆきな)
ukina Ota、

1986年11月26日生まれは、
日本の元フィギュアスケート選手(女子シングル)。
2004年四大陸選手権優勝。
2003年世界ジュニア選手権優勝。

太田 由希奈
Yukina OHTA 


●選手情報
別名
氷上のバレリーナ
生年月日
1986年11月26日(36歳)
出生地 京都市
身長158 cm
学歴
宇治市立木幡中学校
同志社女子高等学校
同志社大学
同志社大学大学院総合政策科学研究科

◆元コーチ
樋口豊[3]
濱田美栄[2]
ダイアナ・ロネイン[4]
元振付師
カタリナ・リンデン[3]
アストリッド・シュラブ
デヴィッド・ウィルソン
樋口豊
トム・ディクソン
ビリー・チャペル[5]
濱田美栄[5]

◆所属クラブ
京都醍醐FSC
元所属クラブ
法政大学 (2007-2008)
週間練習時間36〜30
開始1993
引退2008年11月

四大陸選手権 優勝
世界ジュニア選手権 優勝
ジュニアグランプリファイナル 優勝

●人物

京都府京都市生まれ。
幼少期は本格的なモンテッソーリ教育を実践する深草こどもの家に通い、集中力を養う土台が作られる。

その後宇治市に転居し宇治市立木幡中学校、同志社女子高等学校卒業[1]。

同志社大学政策学部[6]
入学後、練習拠点を東京に移すために
2007年に退学し、
法政大学通信教育部文学部日本文学科に入学し直した。

2008年に競技を引退し、2009年4月からは同志社大学に法政大学から
編入して復学し卒業。

趣味は家事全般とスポーツ観戦[3]。

スポーツマンというよりは気性の激しい芸術家肌といった性格で、
自身も「現役時代は嵐のようだった」と語っている。[7]

●指先まで神経の行き届いた表現力と所作の美しさから
「氷上のバレリーナ」の
名を取り、
海外でも高い評価を受けていた[8][9][10][11]。

レイバックスピンやイナバウアーの美しさにも定評がある[2][8]。

しかし、右足首の故障でジャンプの確実性を損ね、3回転ルッツや3回転フリップはプログラムから外すようになった。

●経歴

4歳のとき、京都醍醐スケートリンクで濱田美栄に声をかけられ、6歳から競技を始めた。

小学校3年生からはクラシックバレエにも取り組み、小学校6年生で3回転ジャンプを跳んだ[12][13]。

2001-2002シーズンにISUジュニアグランプリ (JGP)ソフィア杯で優勝し、
JGPファイナルに進出。2002-2003シーズンのJGPファイナルで優勝し、

世界ジュニア選手権でも
日本人女子シングル選手として
小岩井久美子以来10年ぶりとなる優勝を果たした[14]。

2003-2004シーズンには
シニアの国際大会デビュー戦となる
四大陸選手権で優勝し、

2006年トリノオリンピックに向けて期待を集めた。

しかし、持ち味だった関節の柔らかさがかえって仇となり、

◆右足首の骨挫傷という選手として
致命的な怪我を負ってしまった[15]。

2004-2005シーズン途中からは競技会に出られない日々が続き、
引退やアイスダンス転向も検討したが[8]、
シングルでの復帰を目指してアメリカでリハビリに励んだ。

アメリカではアレクシ・ギレスの家に
ホームステイし[16]、ジュディ・ブルンバーグの誘いで「アイスシアター・オブ・ニューヨーク」に出演した[17]。

2006年、
「KTV Diamond Ice 2006」
で久々に日本国内のファンに演技を見せた[18]。

同年からは練習拠点を東京に移し、
樋口豊の指導を受けて2010年バンクーバーオリンピック出場を目指した。

2007-2008シーズンにはゴールデンスピンで国際競技会にも復帰した。

しかし、怪我は完治すること無く
2008年の東京選手権を欠場した後、
引退を発表した[13][19]。

2008年12月からプロスケーター活動を開始し、2009年から2015年までプリンスアイスワールドでキャストを務めた。

2009年には同志社大学政策学部に1年生として再入学した[20]。
2012年に同志社大学卒業。
2013年、同志社大学大学院総合政策科学研究科入学。[21]