日本軍がおこなった
南京大虐殺。


アメリカ軍がおこなった、
東京大空襲
広島・長崎原爆

これも、アメリカ軍が
おこなった大虐殺です。

この記事にも書いているが、

戦争は所詮「人殺し」です。

日本軍もアメリカ軍も
大虐殺をやっているのです。

日本が正しい
アメリカが正しい
なんてことは無いのです。

日本もアメリカも間違っているのです。

戦争(人殺し)は、
どっちが正しくて
どっちが間違っている、

なんてことはない。

どっちも間違っているのです。



●livedoorニュース
●逝去した三笠宮が語っていた歴史修正主義批判!
日本軍の南京での行為を「虐殺以外の何物でもない」と

 10月28日07時30分

 昭和天皇の末弟で、今上天皇の叔父にあたる三笠宮崇仁親王が、

昨日27日、心不全により逝去した。

享年100歳だった。

一部メディアは、崇仁親王の

先の戦争に対する反省の念や、戦争反対への思いなどを伝えているが、

その発言は、マスコミが報じている以上に

踏み込んだものだった。

崇仁親王は、いまこの時代を支配している

右傾化に対して、

早くから警鐘を鳴らしてきたとさえ言える。

 それを象徴するのが、

右派の"南京大虐殺はなかった"という

歴史修正主義に対する

強い批判だろう。

 1915年生まれの崇仁親王は、陸軍士官学校に進み、軍人となり、

日中戦争時の1934年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。

このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書き、

日本の侵略主義を批判したのだが、

その文書が発見された
1994年には、月刊誌のインタビューで

"南京大虐殺はなかった"という論についてどう思うか聞かれ、このように述べている。

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、

なんだか人数のことが問題になっているような気がします。

辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。

つまり、人数は関係ありません。

私が戦地で強いショックを受けたのは、

ある青年将校から

『新兵教育には、

生きている捕虜を目標にして

銃剣術の練習をするのがいちばんよい。

それで根性ができる』

という話を聞いた時でした。

それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは

一体なんだったのかという疑義に駆られました」

(読売新聞社「This is 読売」94年8月号)

 このインタビューが収録された当時は、

羽田内閣の永野茂門法相が毎日新聞のインタビューで

「南京大虐殺はでっち上げだと思う」

「太平洋戦争を侵略戦争というのは間違っている」

などと発言するなど、

戦中日本の戦争犯罪を

公然と否定する流れが、

すでに一部の右派だけでなく

かなりの勢いを持ち始めていた時期である。

 とくに、日中戦争初期の1937年12月の首都・南京陥落以降に日本軍が行った

捕虜や民間人の殺害行為については、

論者・研究者によってその人数に20万人から数百人、

そして「そもそも虐殺は存在しなかった」という

いわゆる"マボロシ論"まで論じられていた。

その"数字"をとりたてる流れは現在も続き、

現日本政府もまた

「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である」

としている。

 だが、崇仁親王はこうした"数字"の論に対して

"むごたらしく殺せば人数は関係はありません"

と、はっきりと批判したのだ。

さらに同インタビューでは、

自身の南京での従軍経験としてこうも述べている。

「また、南京の総司令部では、満州にいた日本の舞台の実写映画を見ました。

それには、広い野原に

中国人の捕虜が、

たぶん杭にくくりつけられており、

そこに毒ガスが放射されたり、

毒ガス弾が発射されたりしていました。

ほんとうに

目を覆いたくなる場面でした。

これこそ

虐殺以外の

何ものでもないでしょう」

 言うまでもなく、

崇仁親王が戦争犯罪を正視し、歴史修正主義をけん制したのは、

再びこの国が戦争をすることがないようにという

強い思いがあったからだ。

1956年の著書『帝王と墓と民衆』(光文社)に付した「我が思い出の記」のなかでも、

南京に配属された当時を振り返り、こう記している。

〈わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、
じつにこの一年間であった。

いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。

罪もない中国の人民にたいして

犯したいまわしい暴虐の数かずは、

いまさらここにあげるまでもない。

かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、

中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、

およそ聖戦とは

おもいつかない結果を招いてしまった〉

〈わたしがここで言いたいのは、

聖戦という大義名分が、

事実とは

およそかけはなれたものであったこと、

そして内実が正義の戦いで

なかったからこそ、

いっそう表面的には聖戦を

強調せざるを得なかったのではないかということである〉

 昨年、ユネスコの世界記憶遺産に

「南京大虐殺」が登録されたことに対して、

ユネスコへの分担金を留保するという

"報復"に出た安倍首相に

こそ聞かせたい言葉だ。

だが、そうした誠実な態度を貫き通した崇仁親王に対し、

これまで右派は「赤い宮様」などと揶揄し、

「左翼」と批判してきた。

前述した著書の一部が新聞で紹介されたときには、

"これは日本軍を傷つけるものだ"

という趣旨の脅迫まがいの手紙が

当時品川区にあった三笠宮邸に届いたこともあったという。

 しかし、崇仁親王は

イデオロギーから発言したわけではない。

崇仁親王がオリエント史などの歴史研究を愛し、

大学の教壇にも立ったことはよく知られているが、

その根本には、

たとえそれがどれほど自分にとって

正視し難い事実であったとしても、

歴史には

真摯に向き合わなければならないという

覚悟があった。

そしてなにより、

崇仁親王自身が皇族という極めて特殊な立場にありながら、

"権威"が大衆を

惑わすこと、そして、

自由な言論が

封鎖されることこそ、

民主主義にとって

一番の障壁であると、

60年以上前から指摘してきた。

 マスコミはあまり取り上げないが、

崇仁親王の思いが、

皇室と国民の垣根を越える

"民主主義"にあったことは明らかだ。

たとえば1952年の「婦人公論」(中央公論社、当時)2月号に掲載された「皇族と自由」と題した聞き書きのなかで、

崇仁親王は、昭和天皇の地方巡幸の際に

警官が万歳しない人に対して

叱りつけたという話を受けて、

「これでは少しも人間と人間との感情が流れてきません。

こんなとき号令をかけられた人がなぜ抗議しないのでしょう」

「同じ人間同しなのですから

ハダカとハダカでぶつかり合ってほしい」

としたうえで、

「これが民主主義の

基礎であることはいうまでもありません」

と語っている。

 あるいは1966年の「女性自身」(光文社)のインタビューでは、

皇室の民主化の停滞を嘆きながら、

侵略戦争の認識についてこう述べている。

「太平洋戦争が終わったときには、

もうこれで地球上から悲惨な戦争はいっさいなくなったのだと思いましたが、

現状をみると、

まことにあさはかな考えだったことがわかります。

 どんな大義名分をつけても、

しょせん戦争は殺人です。

人を殺すことは

最大の罪悪です。

戦争放棄を明記した

新憲法の精神は、

いつまでも大切にしなければなりません」

 しかし、2016年の日本はどうか。

安倍政権はメディアに

圧力を加え、

言論弾圧まがいの行為を繰り返し、

さらに憲法を変えて

この国を

戦争へと導こうとしている。

そして、天皇の「生前退位」についても

一代限りの

特別法で

お茶を濁し、

抜本的な天皇や皇族の

人権問題には

決して触れようとしない。

さらには、国民の多くは

そんな安倍政権を支持し続け、

歴史修正やその強権政治への

国内外の批判に対しては、

束になって「反日」だと襲いかかる。

まるで、

みずから

民主主義を

手放そうとしているかのようだ。

 非民主的な存在である

皇族のほうが

国民や政治家より

よっぽど自由や人権、民主主義について

考えを巡らし、また、

負の歴史を正面から見据えていた。

その歪な現実を、

わたしたちはよく受け止めなくてはならない。

(宮島みつや)

(LITERA(リテラ))