ドイツ人は、
まじめで勤勉。
日本人も、
まじめで勤勉だが、
ドイツ人は、積極的
日本人は、消極的
その違いがありますね。
日本人は、太平洋戦争の間違いを認める勇気が無いのです。
ドイツ人とは、そこが違うのです。
●Yahoo!ニュース
●ドイツと日本「過去との向き合い方」その違いは
〈AERA〉
dot.
[8/22 07:10]
「過去」との向き合い方で日本と比較されることが多いドイツ。
歴史に対するその厳しい姿勢は、どこから来るのか。
7月上旬、日本記者クラブの取材団に参加してドイツを訪れた。
ベルリンの街を歩くと、
「過去」を突きつけるモノや施設の多さに圧倒される。
中心部のベルリン上級地方裁判所。
玄関に近い路面に10センチ四方ほどのネームプレートが九つ埋め込まれている。
生年月日、そして死亡した強制収容所の名前。
刻まれているのは、ナチスに迫害され、殺された人たちの情報だ。
真鍮(しんちゅう)製のプレートは「つまずきの石」と呼ばれる。
この場所から9人のユダヤ人裁判官らが連れ去られたことを示す。
最初の石ができたのは
1996年。
いまでは欧州の19カ国で 5万3千個に。
6月9日には連邦議会の全会派が出席し、敷設の式典が開かれた。
主宰団体のクリスティーネ・キューンル=ザーガーさん(69)は言う。
「犠牲者を知る人たちが高齢化でどんどん亡くなっている。
今やらなければという使命感です」
市内の学校、ハンナ・アーレント・ギムナジウム。
ハイディ・ゾウ教諭(60)は、16~17歳の生徒を対象に、
犠牲者や加害者たちの生き様を調べさせる授業を 30年前から続けている。
成果は「石」に刻まれていく。
いま多くの州の学習指導要領で
歴史教育が義務づけられ、
学生たちはナチを記録した博物館や強制収容所などを訪れる。
「私たちの世代こそが、ドイツの社会を大きく変えてきたのです」(ハイディさん)
もっとも、国をあげての「過去の克服」の背景には、
実利を求める政治家の判断もあった。
戦後初の西独首相アデナウアーは51年、連邦議会で
「ドイツ民族の名において、筆舌に尽くしがたい犯罪がなされた」
と演説し、
多くのユダヤ人が逃れていったイスラエルへの賠償を決めた。
ドイツ国際政治安全保障研究所のムリエル・アッセブルクさんは、こう解説する。
「ドイツ製品を世界で再び受け入れてもらうには、
後悔や償いを示し、特に米国のユダヤ人社会に認められる必要があった」
85年、コール首相が武装親衛隊の眠る墓地を訪れて
ユダヤ社会などから批判を浴びるや、
3日後にはワイツゼッカー大統領が歴史的な演説を行い、沈静化させた。
東欧諸国や強制労働の被害者への補償を次々と打ち出し、
周辺国に懸念が強かった東西ドイツの統一も成し遂げた。
何がドイツを過去に向かわせるのか。
答えはひとつではないが、
確かなのは、
隣国と深刻な摩擦を起こすことなく、
この国が再び欧州の中核を担い始めているという事実だ。
※AERA 2015年8月17日号より抜粋
まじめで勤勉。
日本人も、
まじめで勤勉だが、
ドイツ人は、積極的
日本人は、消極的
その違いがありますね。
日本人は、太平洋戦争の間違いを認める勇気が無いのです。
ドイツ人とは、そこが違うのです。
●Yahoo!ニュース
●ドイツと日本「過去との向き合い方」その違いは
〈AERA〉
dot.
[8/22 07:10]
「過去」との向き合い方で日本と比較されることが多いドイツ。
歴史に対するその厳しい姿勢は、どこから来るのか。
7月上旬、日本記者クラブの取材団に参加してドイツを訪れた。
ベルリンの街を歩くと、
「過去」を突きつけるモノや施設の多さに圧倒される。
中心部のベルリン上級地方裁判所。
玄関に近い路面に10センチ四方ほどのネームプレートが九つ埋め込まれている。
生年月日、そして死亡した強制収容所の名前。
刻まれているのは、ナチスに迫害され、殺された人たちの情報だ。
真鍮(しんちゅう)製のプレートは「つまずきの石」と呼ばれる。
この場所から9人のユダヤ人裁判官らが連れ去られたことを示す。
最初の石ができたのは
1996年。
いまでは欧州の19カ国で 5万3千個に。
6月9日には連邦議会の全会派が出席し、敷設の式典が開かれた。
主宰団体のクリスティーネ・キューンル=ザーガーさん(69)は言う。
「犠牲者を知る人たちが高齢化でどんどん亡くなっている。
今やらなければという使命感です」
市内の学校、ハンナ・アーレント・ギムナジウム。
ハイディ・ゾウ教諭(60)は、16~17歳の生徒を対象に、
犠牲者や加害者たちの生き様を調べさせる授業を 30年前から続けている。
成果は「石」に刻まれていく。
いま多くの州の学習指導要領で
歴史教育が義務づけられ、
学生たちはナチを記録した博物館や強制収容所などを訪れる。
「私たちの世代こそが、ドイツの社会を大きく変えてきたのです」(ハイディさん)
もっとも、国をあげての「過去の克服」の背景には、
実利を求める政治家の判断もあった。
戦後初の西独首相アデナウアーは51年、連邦議会で
「ドイツ民族の名において、筆舌に尽くしがたい犯罪がなされた」
と演説し、
多くのユダヤ人が逃れていったイスラエルへの賠償を決めた。
ドイツ国際政治安全保障研究所のムリエル・アッセブルクさんは、こう解説する。
「ドイツ製品を世界で再び受け入れてもらうには、
後悔や償いを示し、特に米国のユダヤ人社会に認められる必要があった」
85年、コール首相が武装親衛隊の眠る墓地を訪れて
ユダヤ社会などから批判を浴びるや、
3日後にはワイツゼッカー大統領が歴史的な演説を行い、沈静化させた。
東欧諸国や強制労働の被害者への補償を次々と打ち出し、
周辺国に懸念が強かった東西ドイツの統一も成し遂げた。
何がドイツを過去に向かわせるのか。
答えはひとつではないが、
確かなのは、
隣国と深刻な摩擦を起こすことなく、
この国が再び欧州の中核を担い始めているという事実だ。
※AERA 2015年8月17日号より抜粋