この記事の嶋橋伸之さんのように、
報道されることなく、原発で働いていた人たちが、
若くして癌(ガン)で、たくさん亡くなっているのでしょうね。
これが、原子力発電所の実態、現実です。
そして、原子力発電所では、
規定の被曝量を超えていても、
「原子力発電所は安全だ」ということを主張するために、
隠ぺい、改ざんが繰り返されているのです。
これでも、原子力発電を推進しようとするのですか?
原子力発電所は、正常に動いていても、殺人マシンです。
●「週刊文春6月2日号」
●浜岡原発で白血病、
長男を失った「母の叫び」
「法定基準50ミリシーベルトが安全なら息子はなぜ死んだ」
「火葬場から出てきた息子の骨を見ると、
首の当たりが真っ黒なんですね。
もしかしたら、ここにも放射線が当たっていたのかなって。
原子炉の底をずっと見上げながら仕事をしていましたから……」
声を詰まらせながら息子の最後を語るのは、
嶋橋美智子さん(73)だ。
美智子さんの長男・伸之さん(享年29)は、
静岡県浜岡原発に勤務していた1989年11月、
「慢性骨髄性白血病」と診断された。
大病を患いながらも、伸之さんは2年以上も闘病を続けた。
「看病している私が立ち上がろうして、
ベッドの縁を触っただけでも『痛い!』って言うんです。
振動が響くんですね。
そのくらい全身に痛みが広がっていた」
80キロあった伸之さんの体重は50キロ台まで落ちていたという。
「最後の日にね、先生が酸素マスクを付けようとしたら、
それを嫌がって。
『楽になるから』と何度やっても、振り払うんですね。
後になって思うと、麻酔で朦朧(もうろう)とした意識の中で、
(原発の)作業用マスクに見えたんじゃないかなって。
病気でこんなに苦しんでいるのに、
また原発で作業をやらされるのは嫌だと、
言いたかったんじゃないか……」
伸之さんは浜岡原発で、
原子炉の計測機器の保守・点検を専門にしていた。
9年間での累積被曝量は50.93ミリシーベルト。
年間被曝量は最大でも
9.8ミリシーベルトに過ぎず、
法定基準の年間50ミリシーベルトよりも、はるかに少なかった。
美智子さんの手元に、伸之さんの放射線管理手帳など
会社に遺された遺品が戻ってきたのは、
1992年春のことだった。
その手帳は、
訂正印で埋め尽くされていた。
白血病と診断される1年半前、
血液検査で
明らかに異常な数値の
白血球数が判明していたにもかかわらず、
その横には「異常なし」と記されていた。
(これを、「隠ぺい」と言います。
これが原子力発電所の実態です。byロクハン)
93年5月、美智子さんたちは、
伸之さんの死は原発での被曝による労災だとして、
磐田労働基準監督署に認定を申請。
翌年7月、この申請は認められた。
国が、伸之さんの死と原発労働に因果関係がある、
判断したのである。
伸之さんが残した研修ノートと、
2年間の業務日誌は、
原子炉の定期検査の時期と、
被曝量が高くなる時期がぴったり一致することを表していた。
申請の支援をした海渡雄一弁護士は言う。
「白血病の労働認定基準値は5ミリシーベルト×従事年数。
嶋橋さんのケースではその基準を満たしていました」
今、美智子さんは、福島第一原発事故のニュースを見聞きするたび、
思うことがあるのだという。
「非常事態を止めようと現場で頑張っている皆さんは、
過酷な中でも元気にやって下さっているように見えます。
でも、『(限度の)250ミリシーベルトで引き返した』
という報道を聞くとたまらなくなる。
息子の被曝量は50ミリですよ。
(年間)9ミリですよ。
そんなに高くないんです。
でも、放射能で白血病になっているんです。
今の政府や東電は『今日は何ミリでした』って言っておいて、
あとで、『実は数百倍でした』と
平気な顔で言う。
それが悔しい。
息子だって(白血球数の)異常が見つかった時に言ってもらえば、
助かったかもしれない。
東北の子どもたちや従業員の皆さんが、
5年後にもし病気になったら、
私と同じ思いをする人が出てしまうんです」
前出の海渡弁護士は、労災認定の不備を指摘する。
「被曝から数年後に発病した場合、現在は白血病以外、
放射線に関する労災認定には明確な基準がないのです。
例えば肺がんでは、炉内汚染のまでされたのに、
労災が認められなかったケースもある」
福島第一原発で働く作業員の被曝限度が今、
250ミリシーベルトまで引き上げられている--。
(だから、今、政府は、人体実験をしているのです。byロクハン)