● そこでようやく、ぼくは気づいた。

 彼女は、ちょっとやせていたのである。

 しかしそれは、引き締まっているということもできた。

 彼女は、とてもほっそりとしていた。

 もともとほっそりとしていたのが、より一層ほっそりとしているのは、肉眼でも明らかだった。

 特に、顔から首にかけてのラインがほっそりとしていた。

 また、腕周りもほっそりとして見えた。

 それが、彼女の手のひらが、いつも以上に大きく見えたことの理由であった。

 やせた腕周りに比べ、手の比率が大きくなったように見えたのである。

 ただ、それが彼女のジャンプに
何かしらの影響を及ぼしているかもしれないとは、その時は考えなかった。

 むしろそれは、良い兆候のように思えた。

 これは全くの素人考えだったと後で知らされるのだが、
「やせていれば、その分体が軽くなるから、トリプルアクセルも跳びやすくなるだろう」と思ったのだ。


○体の軽い真央さんのトリプルアクセル

 ただし、この日の彼女の練習は、けっして好調とはいえなかった。

 トリプルアクセルは、何度も挑戦していたが、なかなか決めることができなかった。

 転倒することこそなかったものの
(これは調子が悪かったグランプリシリーズのパリ大会とは大きく違っていた。

 パリでは何度も転倒をくり返した)、
しかし回転が不足するケースが多かった。

 そのため、両足でドシンと着地してしまう場面が何度となく見受けられた。

 そうすると真央さんは、彼女には珍しく、おかしいなという感じで、
ちょっと小首をかしげるシーンも見受けられた。

 しかしぼくは、そこでも特に異変を感じたわけではなかった。

 というのも、これまで見てきた今シーズンの真央さんは、
調子の良くないことが多かったので、ジャンプの失敗はけっして珍しくはなかったからだ。

 むしろ、転倒しない分だけ、調子は良く見えたくらいだ。

 踏切からジャンプに至るまでのモーションは、いつも以上に美しく決まっていた。

 そしてだからこそ、(これも素人考えかもしれないが)彼女は転倒しなかったのだと思う。

 動きとしては問題なかったからこそ、姿勢のバランスは保たれていたのだ。

 だから、そのジャンプに何らの問題があるようには見えなかったし、
ましてや、単純な失敗にも思えなかった。

 確かに回転こそ足りなかったものの、それは試合に向かえば改善されていく、
例えていうならば蝶が孵化する段階で幼虫から一度サナギになるような、

一種の過程の姿くらいにしか思えなかった。

 そう思ったのは、ぼくが見てきた今シーズンの真央さんは、
ずっとそんなふうにしてきたからだった。

 練習より、いつも本番の方が調子が良かった。

 特に日本選手権では、本番直前の六分間練習でようやく「いけそうだ」という感触をつかみ、
トリプルアクセルに挑戦することを決めたくらいだった。

 だから今回も、やっぱりそういうステップを踏んでいるのだろう、
つまりこれは、いつもの真央さんなのだ--この時のぼくは、
そんなふうに考えていたのである。

 それが、いつもと違っていたと知らされたのは、
翌日、ショートプログラムの本番が終わってからのことだった。

 特に、真央さんがトリプルアクセルに失敗し、点数があまり伸びなかった後、
佐藤信夫コーチの「(真央さんが)やせてパワー不足になった」というコメントを聞いた時、
「あっ」と思わされた。

 それは、ぼくにとって考えもしなかった言葉だったからである。

 しかし言われてみると、とても納得のいく言葉でもあった。

 彼女がやせているというのは分かっていたが、それは、
体が軽くなる分トリプルアクセルを跳びやすくなる効果を生むものだと考えていた。

 しかし佐藤コーチは、それとは全く逆の説明をした。

 真央さんは、体がやせて筋肉が落ちてしまった分、
かえってパワー不足に陥り、ジャンプが跳べなくなってしまったというのだ。

 そしてそれは、言われてみるとなるほどその通りで、
十分に考えられることだし、また真央さんが前日のジャンプ練習で回転が足りなかったのも、
本番でうまくいかなかったことも、全て腑に落とされた。

 --と、少し結論を急いでしまったが、時間を元に戻して、
前日の公式練習の話をもう少し続けたい。

 そうして真央さんは、転倒することこそなかったものの、
この時はトリプルアクセルを完璧には決められないまま、一回目の練習を終えた。

 次いで、午後に二回目の練習が始まった。

 これは、男子のショートプログラムの本番が終わった夕方から始まったのだが、

 面白かったのは、必ずしも選手全員が参加したわけではなかったことだ。

 おそらく半分くらいだったろうか。

 選手にとっては、試合前日には
一回しかリンクで滑らないことが
もはや習慣になっているためか、
あるいは疲れを溜め込んだり、リズムを崩さないためか、
練習に出てこなかったり、出てきても軽く流すだけだったり、
あるいはすぐに終えて引
きあげてしまう人が多かった。

 そんな中にあって、真央さんは時間通りに姿を現すと、
いつもと変わらずにまたルーティンワークを淡々とこなし、
午前と同じように、最後までジャンプの練習に黙々といそしんでいた。

 ただ、人数が少なかったことと、
あるいはやはりイレギュラーな練習ということもあったためか、
その表情はとてもリラックスして見えた。

 午前中の深く集中した表情とは打って変わって、
この時は明るく、穏やかな表情に終始していた。

 それを見ると、逆に真央さんの集中する姿がいかに特別かというのが、よく分かった。

 彼女は、神経質になったりイライラした表情を見せることがほとんどなく、
集中する時は、逆に静かな、一見穏やかな佇まいにさえなる。

 それゆえ、彼女の集中の深さというものが忍ばれてはいたのだが、
それは、彼女がいつも練習の初めに行っている
ルーティンワークとも深い関係があるということに、
この時初めて気づかされた。

 真央さんは、練習初めのルーティンワークの中で、
いつもそうした状態へと移行していく。

 つまり、そういう状態を作るよう、自ら取り組んでいたのである。

 あまり集中しない、リラックスした練習を見たことによって、
その違いに初めて気づかされた。

 集中するということは、そういう過程を経て入っていく、
真央さんにとっても特別な状態だったのだ。

 そうして彼女は、そういう状態を作ることさえ、
すでにある種の技として、体得していたのである。


○試合本番での浅田真央さん

 さて、そうして前日の二回の練習を終えた真央さんは、
いよいよ世界選手権の本番に臨んだのだった。

 翌日の29日に行われた女子のショートプログラムでは、
全選手中最後から二番目という順番で、演技を行った。

 スポーツというのは、何でもそうだと思うのだが、
蓋を開けてみるまではどうなるか分からない。

 特に今シーズンの真央さんは、
本番直前の六分間練習まで
トリプルアクセルを跳ぶかどうか決めてなかったこともあるくらいで、
本当にどういう演技が展開されるのか、予測がつかない。

 この日の真央さんは、調子はけっして悪くないように見えた。

 朝に行われた練習では、トリプルアクセル以外のジャンプは
ほとんど問題なく決まっていたし、集中にも乱れはなかった。

 これに比べれば、今シーズンはもっと悪く見える状態が幾度もあった。

 しかし真央さんは、ショートプログラム本番での
最初のトリプルアクセルを決めることができなかった。

 またその後も、演技に多少の精彩を欠いたようで、
得点は、今シーズンの真央さんにしてもあまり良いものとはならず、
順位も全体の7位という結果にとどまった。

 フィギュアスケートでは、大会にもよるが、キス&クライで得点を見終わった選手は、
舞台裏に下がるとまずカメラブースでテレビの取材を受け、
その後、ミックスゾーンで新聞や雑誌の記者たちの囲み取材を受ける。

 ぼくはこの日、スタンドの記者席で真央さんの演技を見終わると、
すぐにミックスゾーンへと移動して、
他の記者たちと一緒に真央さんの囲み取材に赴いた。

 すると、そこに現れた真央さんは、今シーズン一度も見たことがなかった表情をしていた。

 その眼差しには、誰が見ても一目で分かるほどの、
深い悲しみが湛えられていた。

 それは、見る者の胸を打つ痛切さをはらんでいた。

 それを見た瞬間、ぼくはハッとさせられた。

 そうして、身体がすくむような、何とも言えない気持ちにさせられた。

 真央さんは、悲しそうな顔をしていた。

 その真っ直ぐな瞳からは、
心の底からあふれ出した生のままの悲しみが透けて見えるようだった。

 その何とも言えない表情で、彼女は記者たちからの質問に答えていたのだ。

 だから、この日の囲み取材は、自然と短いものにならざるをえなくなった。

 もちろん、プロである記者たちは、けっして話を聞くことを遠慮したわけではないだろう。

 しかし真央さんのその表情を目の当たりにさせられると、
それが言葉以上に多くを物語っているようで、
自然と質問も憚られたのだ。

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