中華民国(台湾)の大地震の時、いち早く救助隊が来たのは日本だった。
しかし、今回の震災で中華民国(台湾)からの救助隊の申し出に、
日本政府は、断った。
それでも、中華民国(台湾)は独自の判断で、
NPO法人経由で救援隊を送った。
日本政府は、なぜ、そんなにしてまで、
大陸中国の顔色をうかがわなくてはいけないのか。
●台湾大地震で日本の援助受けた李登輝氏
「少しは恩返せたか」
NEWS ポストセブン
[5/12 16:05]
地震から3週間後に避難所を訪ね、初めて直接被災者の声を聞いた菅首相。
復興策も政治主導によるリーダーシップどころか、対策本部の乱立で混乱している。
1999年に発生した台湾大地震で、
当時総統だった李登輝氏は、
毎日のように被災地を訪ね、国民の声に耳を傾け続けた。
李登輝氏に国のリーダーのあり方を聞いた。
* * *
李登輝氏が台湾総統だった1999年9月21日未明、マグニチュード7.3の直下型地震が台湾を襲った。
震源の深さが1?と浅かったため、
放出エネルギーは阪神・淡路大震災の2倍。
台湾での20世紀最大の地震だった。
「台湾大地震発生時、私は官邸の書斎にいた。
電灯の光が徐々に弱まり、
消えたかと思ったら、数秒後に大きな揺れが襲った。
まずはこの目で被災地を見なくては。
翌朝、私は飛行機で、震源地の台湾中部にある南投市に向かった。
亀裂が入り盛り上がった道路。
倒壊した家屋。
それはまさしく、大自然の猛威だった。
畏敬の念すら感じたほどだ。
勇気づけられたのは各国からの声だった。
多くの国や救援組織がすぐさま援助を申し出てくれたのだ。
日本の多くの国会議員は、
阪神・淡路大震災で使用した仮設住宅を
台湾の被災者のために無償提供するよう、
日本政府に働きかけてくれた。
決して私たちは孤独ではない。
日本をはじめとする国際社会からの関心と協力が、
どれほど私たちの支えになったことだろうか」
日本が派遣した救助隊は、
地震当日の夕方に台湾入りし、最も早かった。
また隊員数145人は、各国の中で最大規模だった。
日本が寄贈した仮設住宅は約1000。
10月16日に最初の住宅が完成した。
「今回の震災は、私たちが恩返しする番だと考えた。
しかし交流協会台北事務所(大使館の役割を果たす日本側の窓口)を
通したレスキュー隊(中華民国捜救総隊)派遣の意思に対し、
残念ながら1日返事を待たされたばかりか、
「救助隊への要請はもっと先になる」というつれない返答だった。
中国の救助隊派遣表明に
おもねった(注:他人のきげんをとり、気に入ろうとする。
おべっかをつかう。へつらう)
というのが真相だろう。
だがわがレスキュー隊は日本政府の対応を待たず、
総勢35名が自主的に出発。
日本のNPO法人の協力のもと、
中国と同日の13日に到着し、
岩手で救援活動を行なった。
少しは恩返しができただろうか」
※SAPIO
2011年5月25日号