●手作り避難所、70人救った
 10年かけ岩山に
 東松島
 
3月31日 03:03
 
 「津波なんてここまで来るわけがない」。
 
 そう言われながら、
約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。
 
 700人以上が死亡した宮城県東松島市で、
この場所が約70人の命を救った。
 
 東松島市の野蒜(のびる)地区。
 
 立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、
登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。
 
 お年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。
 
 平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。
 
 近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が
10年ほど前から、
退職金をつぎ込んで1人で造った。
 
 「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。
 
 住民には「佐藤山」と呼ばれていた。
 
 地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、
すでに40人ほどがここに避難していた。
 
 津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。
 
 いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。
 
 「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着き、
避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。
 
 避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、
 
男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かした。
 
 夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、
流失した家屋やがれきで埋め尽くされていた。
 
 避難した遠山秀一さん
(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と
佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、
先見の明があった」と感謝する。
 
 一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。
 
 佐藤さんはこれまで「大きな津波は、建物ではダメ。
 
 高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、
「佐藤山」は指定されなかった。
 
 佐藤さんは「老後の道
楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かってよかった」と喜ぶ一方、
 
「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」と悔しさもにじませる。
 
 「佐藤山」には、もともとあった山桜のほか、しだれ桜や数々の山野草が植えられている。
 
 津波に襲われた登り口付近の梅の木は、地震後に白い花を満開にさせた。
 
 「早く平和な日常が戻るように」。
 
 佐藤さんは、様変わりした野蒜地区を見てそう祈っている。
 
(木下こゆる)
 
■朝日新聞社