私は、最初にも書いた通り、初めから原子力発電所の建設に反対だったのです。
 
 高等学校の社会科の先生に教えられました。
 
 原子力発電所建設の地元に、金をバラまく、アメとムチのやり方に
疑問を抱いていたのです。
 
●「責任は免れない」 原発と共栄の福島・双葉町議ら苦悩
 
3月29日 01:10
 
 「さいたまスーパーアリーナ」(さいたま市中央区)に
町機能ごと移転している福島県双葉町。
 
 地元に雇用を生み出し、多額の金を落とす福島第一原子力発電所に、
町も議会もすがってきた。
 
 その選択は正しかったのか。
 
 28日の臨時議会に出席した町議は、
苦渋の表情を浮かべた。
 
 午前10時半。
 
 折りたたみの机と椅子が並ぶ会議室を「議場」にして議会は始まった。
 
 議題にあがったのは、
48億8600万円の2011年度一般会計予算案など。
 
 震災前の8日に提案され、審議が中断していた。
 
 「歳入はこの通りにいくのか」と議員から指摘があった。
 
 しかし「いつ町に戻っても予算が執行できるようにしておきたい」(清川泰弘議長)と原案通り可決された。
 
 顔をそろえた全11人の町議の中に、
福島市の避難所から高速バスで5時間半かけて
駆けつけた岩本久人議員(53)=1期目=もいた。
 
 腎不全の父親(83)は、1日おきに透析を受ける必要があり、
避難所を長期には離れられない。
 
 震災2日目。
 
、避難先の南相馬市で「ドン」という破裂音を聞いた。
 
 十数キロ離れた福島第一原発で爆発があったと聞かされた。
 
 第一原発が稼働したのは、
ちょうど40年前の1971年。
 
 岩本議員が中学生のころだった。
 
 これという産業がなく「出稼ぎの町」だった双葉町にとって、
原発は金の卵を産むニワトリだった。
 
 町は原発との共存共栄を掲げ、
議会も7、8号機の増設を求める決議をした。
 
 2002年の東京電力による原発トラブル隠し発覚後、決議を凍結したが、
 
 07年に凍結を解除。
 
 再び増設受け入れに動きはじめたところだった。
 
 「町と歩調を合わせてきた議会の責任は免れない。残念でならない」と岩本議員は言う。
 
 ふるさとに戻るまで短くても1年以上はかかると思っている。
 
 「埼玉で避難生活を送る町民のそばにいられず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
何ができるのか、ずっと考えています」。
 
 涙をにじませた。
 
 凍結解除を発議したひとりの伊沢史朗議員(53)=2期目=は、
アリーナで避難生活を送っている。
 
 「町の財政破綻(はたん)をなんとか食い止めたかった」と当時を振り返った。
 
 町は、原発立地自治体に払われる交付金などを見込んで90年代にハコモノを乱発。
 
 借金返済に追われ、早期健全化団体に転落するほど、一時は切迫していた。
 
 7、8号機の誘致凍結を解除すると、
その見返りに毎年9億8千万円の初期対策交付金が町に入った。
 
 だが、町に住民をとどめるために誘致した原発のせいで、
いまは町に住民が近づくこともできない。
 
 「安全を担保されるのが条件だった。
 
しかし、これだけの事故が起きると、あれで良かったのだろうかとも思う。
厳しいのは、いつ戻れるか先が見えないことです」
 
 町は今月末までには、アリーナから再移転する予定だ。
 
 避難生活の長期化を見越して、生活基盤を築くために仕事に就く町民も増えそうだ。
 
 だが生活基盤ができれば、ふるさとには戻りづらくなる。
 
 噴火災害で全島避難した伊豆諸島・三宅島の場合、
住民は避難前の4分の3に減っている。
 
 伊沢議員は言う。
「だから一日でも早く戻りたい。
最近、こんなことも考えるんです。
日本地図から双葉町がなくなってしまうんじゃないかって」
 
     ◇
 
 町は、約1200人の町民と共に、さいたまスーパーアリーナに移転してきた。
 
 井戸川克隆町長は「なるべく多くの町民を一カ所に集めたかった」と話す。
 
 震災翌日の12日に町民らが福島県川俣町内に避難した後、
町長が旧知の埼玉県職員から耳にしたのが、数千人が収容できるスーパーアリーナの存在だった。
 
「当時は、それほど選択する時間がありませんでした」。即決だった。
 
 19日、川俣町から役場ごとアリーナに再避難。
 
 ただ、月末までには、埼玉県が用意した旧県立騎西高校(加須市)の校舎に再度避難する予定だ。
 
 「漂流」は終わらない。
 
 井戸川町長は語る。
「旅をしているような気分なんです、私どもは。
 
 旅の終わりというのは自分のうちに帰ることですよね」
 
(釆沢嘉高、小林祝子、編集委員・神田誠司)
 
■朝日新聞社