菅原孝標の女が著した「更級日記」の中から、面白さを感じた箇所を紹介しています。作者は前回紹介した初瀬詣の後、鞍馬寺、石山寺、長谷寺(初瀬)等、気ままな物詣を楽しみ、世俗的な幸福を願いつつ安定した生活を送ります。
 
心豊かな日々 永承四年(1048)ごろ、作者42歳
原文
 なにごとも心にかなはぬこともなきままに、かやうにたち離れたる物詣をしても、道のほどを、おかしとも苦しとも見るに、おのづから心もなぐさめ、さりとも頼もしう、さしあたりて嘆かしなどおぼゆることなどもないままに、ただ幼なき人々を、いつしか思ふさまにしたてて見むと思ふに、年月の過ぎゆくを、心もとなく、頼む人だに人の やうなるよろこびしてばとのみ思ひわたるここち、頼もしかし。
 
口語訳
 万事にこれといって思いどおりにならぬこともない境遇にまかせて、このように遠い所にある社寺に詣でても、道中の様子を、面白いとも辛いとも感じることによって、自ら気をまぎわせ、そんな安易な寺社参りではあるが、ご利益が期待されて、当面つらく悲しいなどと思われる事柄がないのだから、ひたすら幼い子供たちを、何とか思いどおりに育て上げ、その姿を見たいと思うにつけ、歳月が過ぎて行くのを待ち遠しく、せめて頼りにしている夫だけでも人並みに任官してくれたらと、それを一途に思い続けている気持ちは、心強いことではあった。
 
感想
 作者は、物語的人生実現を諦めて、寺社参詣を楽しみ、子供の成長と夫の任官など世俗的な幸福だけを願ってたわけではないと思う。作者の心底には何か吹っ切れないものが残っていて、現代人がストレスを抱えてそれから逃がれるために旅に出かけるように、寺社詣をしたのではないか。
 
 この後、兄定義(和泉守)を訪ねて、淀から水路を淀川沿いに進み、大阪湾に入り和泉の国府を訪れる記事があります。
 
夫の任官 天喜五年(1057)、作者50歳
原文
 世の中に、とにかくに心のみ尽くすに、 宮づかへとても、もとは一筋に仕うまつりつがばやいかがあらむ、時々立ち出でば、なになるべくもなかめり。年はややさだすぎゆくに、若々しきやうなるもつきなうおぼえならるるうちに、身の病いと重くなりて、心にまかせて物詣などせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ち出でも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、幼き人々を、いかにもいかにもわがあらむ世に見をくこともがなと、臥し起き思ひ嘆き、頼む人のよろこびのほどを、心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意なくくちをし。親のをりよりたちかへりつつ見しあづま路よりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむにて、ほどもなく下るべきことどもいそぐに、門出、はむすめなる人のあたらしくわたりたる所に、八月十余日にす。後のことはしらず、そのほどの有様はものさはがしきまで人多くいきほいたり。
 
  門出……仮の出発。実際の旅立ちに先立って、日の吉凶、方位等を考慮していった
      ん他所に移り、準備を整えたうえで、改めて出立するのが当時の習わしで
      あった。
 
口語訳
 この世間を生きてゆくにつけ、あれこれとただ心を尽くしているが、宮仕えにしても、はじめからそれ一筋に身を入れてお仕え申していれば、どうなっていただろうか、時たま出仕するのでは、どうなるものでもないようだ。年はやや盛りを過ぎて、いつまでも若い人同様に振舞っているのも不似合いなことと思う心境になってくるが、その上に身の病が大変重くなり、かって思いのまま物詣などしたことも今はとてもできなくなったので、時たまの外出もなくなって、これから先長生きできそうにも思われないので、子供達の一人前になった姿をなんとしても私が生きているうちにちゃんと見届けておきたいものだと、寝ても覚めても心を痛め、せめて頼りにしている夫の任官の時を、待ち遠しい思いで待ち願っているうちに、秋になり待望の時節が到来したようではあるが、都に近い国々の国司ではなく、とても不本意で残念である。父親の代から何度も任官した東国よりは夫の任国は近いという話なので、まあ仕方がないと諦めて、間もなく任国に下るための旅支度などをして、門出は、娘が結婚するために新しく構えた家に、八月十余日に行った。この先何が起こるとも知らないで、その門出の有様はもの騒がしいほど人々が大勢集まって活気づいていた。
 
感想
 若いころから宮仕えしていたら自分の人生はどのようになったであろう。見聞は広まり男性と知り合う機会も増えたことでしょう。当時は妻問婚、姉の子供たちに挟まれて寝ているようでは、光源氏の訪れは無理だったのかもしれません。結果として結婚は33歳、15,6歳でも結婚する当時としては超晩婚、それも親が決めたもの、「籠め据ゑつ」とありましたように、強制的に結婚させられたようで、喜びの乏しい結婚生活だったようです。大嘗会御禊の日に初瀬への参詣を許してくれた以外に本書中に夫とのやりとりは出てきません。ただ任官を願うだけだったと言ったら言い過ぎでしょうか。
作者は50歳、女盛りを過ぎ、病になり、思いのまま寺社詣などはできなくなります。晩婚だったため長男はまだ16歳、子供の成長のためにも、夫の任官して欲しかったのでしょうか。
 
夫の死 康平元年(1058)、51歳
 
原文
 今は、いかでこの若き人々おとなびさせむと思ふよりほかのことなきに、かへる年の四月にのぼり来て、夏秋も過ぎぬ。
九月廿五日よりわづらひ出でて、十月五日に夢のやうに見ないて思ふここち、世の中にまたたぐひあることもおぼえず。初瀬に鏡奉りしに、臥しまろび泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来しかたもなかりき。今ゆく末はあべいやうもなし。二十三日、はかなく雲けぶりになす夜、こぞの秋、いみじく仕立てかしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣の上にゆゆしげなる物を着て、車の供に泣く泣く歩み出でてゆくを、見出だして思ひ出づるここち、すべてたとへむかたなきままに、やがて夢路にまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。
 
口語訳
 夫の留守中の今は、どうにかしてこの子供たちを一人前に仕立てようと思うより他のことは無いのだが、翌年の四月に夫は(健康をそこねて)帰京し、夏秋も過ぎ去った。
 九月二十五日より夫は発病して、十月五日に放心状態で夫の死を見届けた私の気持ち、この世で他に例のあることとも思われない。初瀬に奉納した鏡に、倒れ伏して泣いている姿が映っていたとかいうのは、他ならぬ今の私の姿だったのだ。うれしそうだったとかいう姿は、これまでにも体験がない。ましてこれから先あろうはずもない。二十三日、火葬に付した夜、去年の秋、長男仲俊が立派に装いて大事に扱われて、父に従って下向したのを見送ったが、それが今はひどく黒い衣服の上に忌み慎まれる物を着て、柩車の供に泣きながら出てゆくのを、見送っているとこれまでの事が走馬灯のように脳裡を過ぎる、まったく何にたとえようもないので、そのまま悪夢の中をさまようように悲しんでいるが、夫の霊はは見ていてくれたであろうか。
 
感想
 夫は長男を伴いにぎやかに任地に向かって出発したのに、一年余りで他界してしまう。若いころの物語的な夢をあきらめて、やっと納得した現実のささやかな夢も潰えてしまいます。作者が20歳代半ばのころ、母親が身の固まらぬ娘を心配して、長谷観音に奉納した鏡に映った二つの映像、その中でうれしそうだったとかいう私の姿は、これまでに実現しなかったと作者は嘆いています。25年間も嬉しい体験が本当に無かったのでしょうか。