徒然草を少しづつ読んでいます。今回も無常観を表しておる段から。
 
(原文)
 人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。中陰のほど、山里などに移ろひて、便(たより)あしく、狭き所にあまたあひゐて、後のわざども営みあへる、心あわたたし。日かずのはやく過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、われ賢げに物ひきしたため、ちりぢりに行きあかれぬ。もとのすみかに帰りてぞ、更に悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。
 年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さは言へど、そのきはばかりは覚えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。からはけうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
 思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞きつたふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年を待たで薪(たきぎ)にくだかれ、古き墳(つか)はすかれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。
 
(口語訳)
 人が死後に、この世に残す痕跡ほど悲しいものはない。四十九日の間、遺族や近親が山寺などに移って、便利の悪い、狭い所に大勢より集まり、死後の法事などを、営みあっているのは気ぜわしいものである。日数の早く過ぎる程度が他に比べようがない。四十九日の最後の日は、なんの情味もなく、お互いに語り合うこともなく、自分本位に荷物を整理して、バラバラに行き別れてしまう。自分たちの家に帰って、今更に悲しいことは多いであろう。「これこれのことは縁起が悪い。あとに残されたもののために忌み避けることなのだ」などと言うのは、これほどの悲しみの中でどうしてそういうこと(故人の死が不吉だということ)を言うのかと、人間の心が非常に情けないものに感じる。
 何年経っても、亡くなった人のことを少しも忘るわけではないのだが、「死んだ人は日に日に疎遠になる」と言えるのではあるが、そうは言っても、その死んだ当座ほど感じないのであろうか、つまらない冗談を言って、つい笑ってしまう。死骸は、人気のない山奥に葬られ、忌日や墓参など決まった日だけに訪れるてみると、まもなく石塔も苔がはえ、木の葉が散り積もって、夕方の嵐や夜の月だけがおとずれる縁者なのだ。
  故人を思い出して偲ぶ人が生きているうちは、しみじみと感慨をいだく人もあろうが、そういう人もまた死んで、ただその人のことを聞き伝えてるだけの子孫は、感慨をもようすであろうか、もよおしはしない。そうなると、死後の法事も絶えてしまうので、誰の墓かも分からなくなる。年々はえかわる春の草だけを、風流を解する人は感慨深く見るであろうが、ついには、嵐にむせびなくような音をたてていた松も、千年の寿命を待たないで、たきぎに切りくだかれ、古い墓はすきかえされて田となってしまう。そうしてその墓のあとかたさえなくなってしまうのは悲しいことである。
 
(感想)
 中陰(ちゅういん)について調べてみました。発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週にわたり法要を行いました。輪廻の思想により、人の没後49日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからです。また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。最初の法要を初七日、二回目を二七日(ふたなのか)、……、七回目を七七日(なななのか)(四十九日)といいます。(Wikipediaより) 
 私は初七日と四十九日しか経験していません。当時は山寺に49日間もこもって法要したとは驚きです。
 兼好は、亡くなった人々の悲しみも供養も当座だけで、墓さえついにはあと形もなくなくなってしまう。人の存在はつかの間ではかないと言っています。このことは事実なのですが、このような世をどう生きていくかが問題なのです。私たちはふだんこのことを忘れて生活をしていますが、そうかと言って「この世は無常だ。無常だ」と重く、暗く生きていくのも誤りでしょう。兼好は仏道に入れと言っていますが、私は芭蕉が晩年にたどり着いた「かるみ」の境地がそれにあてはまるのかなと思っています。