徒然草を少しづつ読んでいます。前回から188段を読んでいます。今回はその2回目。
 
(原文)
 されば、一生のうち、むねとあらまほしからん事の中に、いづれかまさるとよく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事をはげむべし。一日のうち、一時のうちにも、あまたの事の来らんなかに、すこしも益のまさらん事をいとなみて、その外をばうちすてて、大事を急ぐべきなり。いづかたをも捨てじと心にとり持ちては、一事も成るべからず。
 たとへば、碁を打つ人、一手もいたづらにせず、人に先だちて、小を捨て大につくがごとし。それにとりて、三つの石をすてて、十の石につくことはやすし。十をづてて、十一につくことはかたし。一つなりともまさらん方へこそつくべきを、十までなりぬれば、をしく覚えて、多くまさらぬ石にはかへにくし。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
 京に住む人、急ぎて東山に用ありて、すでに行きつきたりとも、西山に行きてその益まさるべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山へ行くべきなり。ここまで来つきぬれば、この事をばまづ言ひてん。日をさぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ためと思ふに、一時の懈怠(けだい)、すなわち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

(口語訳)
 だから、一生のうちで、主として、希望しているようなことの中で、どれがすぐれているか、よく比べ考え、第一の事を思い定めて、それ以外考えるのをやめて、一つの事を励まなければならない。一日のうちにも一時の中にも、やらねばならない事がたくさん訪れる中で、少しでも価値がある事を行い、その他のことを打ち捨てて、大事を急いですべきである。全てを捨てまいと心の中に執着していては、一つも成し遂げることはできない。
 例えば、碁を打つ人は、一手も無駄にしないで、相手より先に小の石を捨てて、大きい所に取りかかるようなものである。三つの石を捨てて、十の石につくことは簡単である。だが十の石を捨てて、十一の石につくことは難しい。一つであってもまさっているほうにつかねばならないのに、十にまでなると惜しく思われて、たいしてまさっていない石とはかえにくいのである。これも捨てたくない、あれも取りたいと思う心から、あれも得られないし、これも失わねばならいことになってしまうのだ。
 京に住む人が、東山に急用ができて、すでに東山に到着しているとしても、西山に行って、その益がまさると考えが及んだならば、すぐに門から帰り西山に行くべきである。ここまで来たのだから、この用事をまず済ましてしまおう。日時の決まっていないことなので西山の事は家に帰ってから、また出でかけようと思うから、その一時的ななまけ心が、そのまま一生のなまけ心になってしまう。このこと恐れなければならない。
 
(感想)
 今の世でいうならば、医者、弁護士、公務員のようになるのが難しい職業を目指すならば、兼好のいうようにしなければならないのかもしれません。しかしそこまでガリガリやらなくても、なれる人はいると思います。楽々大事を成し遂げられる人と、やっとこさなれる人とどちらが良いといえるでしょうか。
 また大半の人はそこまでは思わないですが、今の世は競争社会、競争に打ち勝つために、この段に書いてあるような努力をしなければならないのかもしれません。まじめに働きさえすれば普通の生活ができる世の中であってほしいと思います。