徒然草を少しづつ読んでいます。今回は兼好の恋愛感です。この段は和歌の引用や源氏物語の叙述に基づいて書かれている箇所があるので、原文からだけでは意味がとりにくいかと思われますので注を付けました。
 
(原文)
 しのぶの浦の蜑(あま)の見る目も所せく、くらぶの山も守(も)る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、ふしぶしの忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
 
 世にありわぶる女の、似げなき老法師(おいほうし)、あやしの吾妻人なりとも、賑はゝしきにつきて、「誘う水あらば」など云ふを、仲人、いづかたも心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分け来し葉山の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
 
 すべて、よその人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下(しなくだ)り、見にくゝ、年もたけなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。

 梅の花かうばしき夜の朧月にたたずみ、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身ざまに偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんにはしかじ。
 
(口語訳)
 人目を忍んで女に逢おうにも他人の目が煩わしく、闇にまぎれて女に逢おうとするにも、女を見張って逢わせぬ人が多いのに、無理に女のもとへ通ってゆく男には、深くしみじみと感じ、その折々の忘れられない事も多いであろう。その反対に親やきょうだいが認め許して、なんの邪魔もせずに女を引き取って家に置き、生活の面倒を見てやるというのでは、女にとって、きっと、ひどくきまりが悪いであろう。
 
 世渡りに困っている女が、不似合いな老法師や身分の賤しい関東から来た田舎者でも、富裕であるのに心がひかれて「妻に迎えて下さると思し召してお誘い下さるのなら」などというので、結婚の仲介者が男・女のどちら側にも、奥ゆかしい人のように言いくるめて、相手に知られない、また、こちらも知らない人を迎えて、つれて来たというのようなものは、なんとくだらないことであろう。こうして結ばれる男女は、どんなことを最初の言葉とするのであろうか。これに反して、結ばれた後で気楽に逢うことができなかった長い年月の辛さを、「苦労して逢ってた間は、邪魔が多かったねえ」などと、二人の間で語りあうようであってこそ、話の種のつきることがないであろう。
 
 すべて当人でない人がおぜん立てした結婚は、なんとも気に食わない事が多いことであろう。仲介によって迎えた女が立派であるならば、それにつけても、その女より身分が低く、顔が醜く、年の盛りを過ぎてしまったような男は、これほど賤しい自分のために、あれほどの女がもったいない身をだめにするだろうかと、女の人柄も思ったより下らなく思われて来て、男自身は、そんな立派な女と対坐しているのも、自分の醜い容姿がきまり悪く思われるであろう。これでは、ほんとうにあじけないであろう。
 
 梅の花の匂いのよい夜の、朧な月の下に、恋人を求めてさまよい歩くことも、恋人の住む御殿の垣のあたりの露を分けて帰ろうとする夜明けの空のようすも、わが身の上に思い出されることのできないような人は、ただ、恋愛に夢中にならないのに越したことはあるまい
 
(注1)
しのぶの浦: 「うちはへてくるしきものは人目のみ しのぶの浦のあまのたく縄
(新古今集巻12、二条院讃岐)
 しのぶ裏のあまが長くひくたく縄の労働が苦しいように、人目を忍ぶ私の恋も長く続いて苦しいものだ
(注2)
誘う水あらば:「わびぬれば身を浮き草の根を絶へて誘ふ水あらば去なんとぞ思う」
古今集巻18、小野小町)
 世にわぶる」身となったとき、私と結婚してくれるという人がいたら一緒に行ってもいいですよ。
(注3)
梅の花…:源氏物語末摘花の表現。
(注4)
御垣が原:源氏物語若菜上の表現
 
(感想)
 ここで兼好は人に紹介された結婚や金目当ての結婚を否定しています。兼好は逢いたくても、見張られていて逢えない苦しい恋をしたようです。しかしそのような恋の方が後で思い出になって良いと言っています。137段で、よろづの事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はでやみにしうさを思ひ、あだなるちぎりをかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさじ)が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ」と、逢うばかりが恋ではない言っている通りです。また最後の段落から、源氏物語風の恋が理想だったものと思われます。こんな風に見て見ると兼好はロマンチストだったのかもしれませんね。
 
 七回にわたって兼好の恋や恋愛感を読んできましたが、ここまで読んでくださりありがとうございます。今回で恋は終了します。「女の本性はすべてねじけている」などの女性蔑視の表現が見られる107段は紹介しませんでした。
 高校では一年間かけて徒然草を学んだのですが、今回学んできたような段は学べませんでした。しかし当時、教訓的な箇所や無常感の箇所を主として学んだのだと記憶していますが、このような箇所を学ぶことができていたらこんなにも暗い性格にならなかったものと思われます。