徒然草を少しづつ読み進めています。今回からは5回ぐらいに分けて兼好の恋物語を読んでみたいと思います。
 兼好法師は、徒然草137段で「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し」、「すべて月花をば目にて見るものかは」と言い、自然を外形だけで見るのではなく、内面にある趣を味あうという余剰美を重んじ、物をよそながら見ることを重んじた人でした。兼好は30歳ごろ隠世者になりましたが、それまで朝廷に仕え、和歌を学んだり、有職故実の知識を吸収したり、和・漢・仏の教養を身につけ、恋愛の経験もありました。上のような考えは恋愛にも及び、失恋・しのぶ恋・追憶の恋をよしとしてあわぬ恋に趣を求めていました。
 
(原文)
 よろづの事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はでやみにしうさを思ひ、あだなるちぎりをかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさじ)が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。(137段)
 
(口語訳) 
 何事も、始めと終わりがとくに趣が深い。男と女の恋情も、いちずに会っている時だけを言うものであろうか、そうではなかろう。逢えないで恋が成就せず終わってしまった辛さを思い出したり、はかない約束のままで終わってしまったことを嘆いたり、長い夜を恋人が来ないので一人で待ち明かしたり、遠くにいる恋人に思いをはせたり、浅茅が茂った荒れ果てた家に、若いころの恋を思い出すことこそ、恋の情趣がよく判っていると言えるであろう。
 
 光田利信著の「恋の隠し方」…(兼好と徒然草)では兼好の恋物語が8つの段で告白されていて、その段は順序がばらばらで、その順序を並び変えると兼好の恋の顛末が判ると言っています。一通り読んでみますと、上に記した恋愛観どうりです。もしかしたらそのような恋を経験することにより兼好の恋愛観が育まれたのかもしれません。今日から5回ぐらいにわけて紹介させていただきます。
 
第1回目は105段
(原文)
 北の屋蔭に消え残りたる雪の、いたう凍りたるに、さし寄せたる車の轅(ながえ)も、霜いたくきらめきて、有明の月、さやかなれども、隈なくはあらぬに、人離れなる御堂の廊(ろう)に、なみなみにはあらずと見ゆる男、女となげしに尻かけて、物語するさまこそ、何事かあらん、尽きすまじけれ。
 かぶし・かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬ匂ひのさと薫りたるこそ、をかしけれ。けはひなど、はつれはつれ聞こえたるも、ゆかし。
 
(口語訳)
 家の北側の日陰に残っている雪がひどく凍り、牛車の轅も霜でひどく光っている、有明の月ははっきりしているが曇りがないわけではない、人気のない御堂の渡り廊下に、普通には見えない男と女が、なげし腰かけて話をしている様子は、何かあるのだろうか、話はつきないようだ。
 顔つきも容貌も非常に立派に見えて、いうにいわれない匂いがさっと薫ってくるのは風情がある。二人の様子がとぎれとぎれに聞こえるのも心がひかれることである。
 
(感想)
 ここで兼好は自身を男女を眺めている第3者のように書いていますが、氷つくような寒さの中で人の逢瀬を眺めることなどしないでしょう。明らかにここでの「男」は兼好自身です。兼好が恋した「女」とはどんな人だったのでしょう。おいおい明らかになります。