徒然草を少しづつ読み進めています。今日は150段。ここでは芸道修業に必要な点をあげています。
 能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、そしり笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず、みだりにせずして、年を送れば、堪能のたしなまざるよりは、つひに上手の位にいたり、徳たけ、人に許されて、ならびなき名を得る事なり。
 
 一芸を身につけようとする人は、「まだよくできないうちは、なまじっか人に知られない。ひそかによく習って、人前に 出るようにするのは、まことに奥ゆかしい」と常にいうようであるが、このような人は一芸も習い覚えることはない。まだ、まったく未熟なころから、名人の中に混ざって、人から悪く言われ笑われても、恥ずかしからないで、平気で過ごして稽古する人は、生まれつきの才能が無いとしても、その道に停滞することもなく、自己流に学ばず、年月を過ごせば、その道に熟達していても稽古をしない人よりは、ついには名人の位置に達し、芸の能力もつき、人々から認められて、ならぶもののない名声を得るものである。
 
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 私は芸事とは無縁な人間ですが、性格的には最初はひそかに習って、ある程度できるようになってから人前に 出たい方です。俳句をやっているのですが句会に参加したことは一度もありません。一度思いきって参加してしまえば楽しめると判ってはいるのですが門を敲けないのです。
 兼好法師が言っているのは、プロ、アマチュアにかかわらず言えることだと思いますが、プロを目指すには、あるレベルに達したら自分一人で苦しむ時期が不可欠だとおもいます。芭蕉の修業時代のことは判りませんが、江戸へ出てからは孤高の道を歩み蕉風を確立しました。
 
 俳句の場合は、じっくりと詠んで佳句を得るのか、数多く詠んでその中から佳句を得るかの違いがあると思います。芭蕉が生涯詠んだ句は1000句程度、子規は2万3000句、虚子はなんと20万句以上も詠んだと言われています。子規と虚子は、すらすら詠めるタイプだったのではないでしょうか。芭蕉はじっくり詠むタイプだったようです。私はじっくり詠むタイプなのですが、時にはふっと出てくることがあります。概してそちらの句の方が良い句が得られるような気がします。
 
 子規は「俳諧大要」の中で、初心者は俳句のルールを知らなくても良いから、とにかく詠めと言っています。それを先輩に示して教えてもらうのも良い。恥ずかしがる必要はないと言っています。5000~1万詠んだら第2期に入るとも言っています。子規の影響かどうか判りませんが、現代の俳人はたくさん詠む人が多いようです。ここで理解できないのは、子規も虚子も撰者ですよね、その撰者が自分の詠んだ句を自選して何万も発表するとは、発表した句には駄句は無いと思っているのでしょうか。それとも未発表の句を弟子たちが発表してしまったということでしょうか。
 
         佳句を得んとすれば駄句を恐るるなかれ
        蠅叩虚子ともなれば駄句五万          大谷弘至