去来抄を読んでいます。今回は先師評の32回め。
 
(原文)
  いそがしや沖のしぐれの眞帆片帆    去來
  (いそがしやおきのしぐれのまほかたほ)
 去來曰く「『猿みの』は新風の始め、時雨は此集の美目(びもく)なるに、此句仕そこなひ侍る。たゞ「有明や片帆にうけて一時雨」といはゞ、いそがしやも、眞帆もその内にこもりて、句のはしりよく、心のねばりすくなからん」。先師曰く「沖の時雨といふも、又一ふしにてよし。されど句ははるかにおとり侍る」と也。
 
(口語訳)
 私去来は「『猿みの』は蕉門の新風、時雨はこの集の見せ所なのに、この句を作り損ないました。ただ、「有明や片帆にうけて一時雨」と詠めば、急に時雨て舟の帆を満帆にしたりたたんだりして、忙しくしている様子が含まれて、句調もなめらかで、くどくどと説明している感じも少なくなるでしょう」と言いました。先師は「沖の時雨という句も、また切れが非常に聞いていて詠みやすいです。けれども句としては有明やよりはるかに劣ちる」とおっしゃいました。
 
(感想他)
(A)いそがしや沖のしぐれの眞帆片帆
(B)有明や片帆にうけて一時雨
 
 芭蕉はBの句のほうがはるかに良いと言っていますが、はたしてどちらが良いのでしょう。私はAの方が直接的な表現で判り易く良いと思います。去来はAは心のねばりがすくなくないと言っていますが、私にはねばりはないように感じます。Bは判りにくいと思います。