去来抄を読んでいます。今回は先師評の29回目。
 
(原文)
   玉棚のおくなつかしやおやのかほ    去來
 
 初めは「面影のおぼろにゆかしき玉祭」と云ふ句也。是時(このとき)添書(そえがき)に、「祭る時は神いますが如しとやらん。玉棚の奥なつかしく覺え侍る」由を申す。先師いがの文に曰く、「玉まつり尤(もっとも)の意味ながら、此分(このぶん)にては古びに落ち可申候(もうすべくそふらふ)。註に玉だなの奥なつかしやと侍るは、何とて句になり侍らん。下文字和(やはら)かなれば下をけやけく、親のかほと置ば句成べしと也。そのおもふ處直(ところすぐ)に句となる事をしらず。ふかくおもひしづみ、却つて心おもく詞(ことば)しぶり、或は心たしかならず。是等は初心の輩(ともがら)の覺悟あるべき事也。
 
(口語訳)
 初めは「面影のおぼろにゆかしき玉祭」という句でした。この時句の添書きに、「祭る時は神がそこにいらっしゃるように祭りなさい、とあります。精霊棚の奥に亡くなった人がいるような気がしてで懐かしく思えました。」と書きました。先師は伊賀からの手紙で「玉祭はまったくそのとおりなのですが、このままでは古くさい句になってしまいます。あなたの添書きに玉だなの奥なつかしやとありますが、どうしてこれが句にならないのでしょう。下五は玉祭では穏やか過ぎるので、はっきりと親の顔と置けば句になるでしょう」とおっしゃいました。自分の思うことが直ちに句となることを知りませんでした。深く考えすぎにて、かえって気分が重く言葉が硬くなり、あるいは意図が不分明になってしまう。これらのことは初心者が気をつけなければいけないことです。
 
(語句)
玉祭:たままつり。魂祭。盆。
玉棚:魂を祀る棚、玉祭の精霊棚のこと
かやけし:(形ク) 普通とは著しく異なるさま。異様である。
 
(感想他)
 去来は、自分が思うこと(アイデア)がすぐに句となる事をしらず、と言っている。ということは発句は思ったことをレトリックで加工しなければいけないと思っていたのだろうか。大岡信は「瑞穂の国歌」の中で俳句について以下のように語っている。
漱石は、レトリックに凝るということを一切しなかった人です。だから俳人としてもすばらしかった。これはこうだということを非常に正確にズバリと言うのが俳句だと思います。近ごろはレトリックを弄する人がふえたので、その分だけ俳句がだめになった、と私は思っているのです。
 
 表現は違いますが、芭蕉の教えと同じように感じます。漱石は子規の初期の俳句に対しレトリックを用いるのではなくアイデアが大事だと再三忠告をします。
 理屈の上では何を表現するのかのほうが、どのように表現するかより大切なことは理解できます。しかし私にはレトリックを用いる能力もないのですから、芭蕉や漱石の指摘は関係ないのかもしれません。