去来抄を読んでいます。今回は先師評の25回目。
 
(原文)
  下臥につかみ分けばやいとざくら
  (したぶしにつかみわけばやいとざくら)
 
 先師路上にて語り曰く「此頃、其角が集に此句有り。いかに思ひてか入集しけん」。去來曰く「いと櫻の十分に咲きたる形容、能謂(よくいひ)おほせたるに侍らずや」。先師曰く「謂應(いひおほ)せて何か有る」。此におゐて胆に銘ずる事有り。初めてほ句に成べき事と、成まじき事をしれり。
 
(口語訳)
    枝垂れ桜の下に臥せっていると、しだれている枝が地面近くまで伸びているので、枝をつかん
    で分けないと中に閉じ込められてしまう。
 
  先師が道を歩きながら「このごろ、其角の句集にこの句がありました。どう思って句集に入れたのでしょうか」とおっしゃいました。私去来は「し垂れ桜があたり一面満開な様子を言い尽くしているのではないでしょうか」と言いました。先師は「言い尽くしてなんになるのでしょう」とおっしゃいました。この言葉を聞いて肝に銘ずることがありました。初めて発句になる句と、ならない句を知りました。
 
(語句)
下臥し:したぶし。物の下に臥すこと。
 
(感想他)
 枝垂れ桜たくさん咲いている光景をうまく表現した基角の句に対して芭蕉ははっきりと、うまく表現したとしてもそれが何になるのだと言っています。今私が現在悩んでいるポイントもここらへんにあります。美しい花や風景をみてそれを苦労して写実的に表現する。でも芭蕉はそんなものはだめと言っているのではないでしょうか。子規が提唱した写生と蕉風の違いかもしれません。一昨年の春、京都の原谷苑で枝垂れ桜を見たときに、やはり基角の句と同じような句を詠みました。
 
     人をみな憩はし隠す糸桜   とっこ
 
 百本以上の枝垂れ桜が垂れ下がり、大勢の人が入園していたのですが、それを枝垂れ桜が遮り、人を感じさせませんでした。その雰囲気を詠みたかったのです。芭蕉に怒られそうな句です。次に、
 
     人はみなしだれ桜の滝の中
 
と、詠んだのです。このほうが私の気持ちが少し表現できたとおもいますが、五十歩百歩でしょう。