去来抄をを読んでいます。今回は先師評の19回目。
 
(原文)
  病鴈のよさむに落ちて旅ね哉      ばせを
  (やむかりのよさむにおちてたびねかな)
 
  あまのやは小海老にまじるいとゞ哉   同
 
 「さるみの」撰の時、此内(このうち)一句入集(にっしゅう)すべしと也。凡兆いはく「病鴈は
 
さる事なれど、小海老に雑(まじ)るいとゞは、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸なりと乞ふ。
 
去來は「小海老の句は珍しといへど、其物を案じたる時は、予が口にもいでん。病鴈は格高く
 
趣(おもむき)かすかにして、いかでか爰(ここ)を案じつけん」と論じ、終(つひ)に兩句ともに
 
乞うて入集す。其後先師いはく「病鴈を小海老などゝ同じごとく論じけり」と笑ひ玉ひけり。
 
(口語訳)
     私はこのように漁師の家の一間を借りて病の身を横たえている。先ほど一羽の雁が仲間につ
     いていけずに湖におちたのを見たが、私と同じように病を得ているのだろう。今頃は葦間に身
     を潜めて身を休めていることだろう。
     漁師の家に来て見ると小海老の中にいとどが混ざっている。
 
 「猿蓑」に入れる句を選んでいる時、この二句から一句を入集することになった。凡兆は「病雁の句もいいが、、小海老にまじるいとどの句は、句の表現がいきいきとして新鮮であり、誠に秀逸」と小海老の句を推す。私去来は「小海老の句は珍しいですが、その題材を思いつきさえすれば私にも詠めそうだ。病雁は格調が高く幽玄な趣があって、どのようにしてこのような句が詠めたのだろう」と論じ、結果的には両方の句を入集することになった。その後先師は「病雁を小海老などと同列にならべて論じたものだ」いってお笑いになった。
 
(語句)
かけり:翔り。連歌・俳諧で、趣向や表現に鋭い働きが感じられること。
いとど:昆虫「かまどうま(竈馬)」の異名。姿は背中を丸めていて海老に似ている。
 
(感想・他)
 なぜ芭蕉は病鴈の句が小海老の句より優れていると考えたのか。また去来はなぜ病鴈の句を、凡兆は小海老を推したのでしょう。
 芭蕉は蘆間の茂みの中で休んでいる雁を実際には見ていません。この句の情景は芭蕉が心の中に思い描いた想像力の賜物ということになります。芭蕉はこの夜、漁師の家に病に身を横たえているうちに、自分が落ちて蘆間に休んでいる病鴈に思えてきた。つまりこの病鴈は芭蕉自身です。この句は一物仕立てなのですが、現実と心の世界を一つに融合した世界なのです。
 一方、小海老の句は輪郭がはっきりとしていますが、病鴈の句のような心の世界は皆無です。芭蕉にとってこの両句の優劣は明白だったのです。では何故凡兆は小海老を推したのでしょうか、それは凡兆にとって俳句とは現実の世界を映し出すものだったからです。