この説教は、1998年11月29日上田新参町教会特別伝道礼拝において、当時敬和学園高等学校の校長であった榎本栄次先生が「人が笑うとき」という題でお話になったものです。今日はその2回目。
 
 次にですね、アブラムはエジプトを離れて、もう一度カナンに帰っていきます。そしてこつこつこつこつ神さまの約束を信じてですね、やり始めるんです。そうすると次第に祝福されてですね、家畜が増え、自分の僕たちもたくさん増えてですね、財産が非常に豊かになります。「ああ、よかったな。」 ところがですね、かんじんの子供ができない。かんじんの子供ができないとなると、彼らはやっぱり寂しい。どんなに約束されていても子供がいないので寂しかった。この当時はですね、子供ってものが祝福という形だと思われていたわけですね。子供がたくさんできるってのは、神さまから祝福されると思っていましたから、神さまに祈っていくわけです。年寄りになっていくわけですよ。アブラムは「もうこのままいったら子供ができないぞ」と思い始めます。そして彼らは、サライも焦ってきて、このままでは跡継ぎができないからといって、サライは夫に「女奴隷のハガルのところに入って子供をつくってくれ」と頼むんです。これも神さまの祝福を自分で造ろうする、わざわざ。そして「仕方ないよな」っていうんで、女奴隷のところに入ってですね、イシュマエルっていう子供ができます。「それで良かったか」と思ったらですね、やっぱりハガルが少し威張りだしてですね、サライはまた泣いたりわめいたりするんです。夫婦関係もおかしくなるんです。神さまがやって来るんです。「あなたを祝福するぞ。あなたを祝福してあなたの子孫を増やすぞ」って言うんです。そうしたらアブラムは「はい、ありがとうございます。イシュマエルが祝福されますように」って言うんです。すなわち「妾につくらした子供がずっと増えていったらいいですね」って言うんです。しかし神の使いは「そうじゃない。私の約束したのはサライとおまえとの間に約束したんだよ。それはちがうんだ。偽者なんだ。私の約束はそれじゃない」って言うんです。その時に彼はどうしたか。「ぷっ」と笑うんです。そしてサライもですね、「そんな馬鹿なことがあるか。九十歳にもなって、そんなお婆さんになって、子供ができるなんて、そんな馬鹿なことを考えられません。いくら神さまだってそんな馬鹿なことありませんよ」と言って、「うふふ」と笑うんです。その笑ったっていうことが、ここでの非常に大きな問題になるんです。「あんた笑ったな」って言うんです。「いえいえ笑いません。神さまのこと笑ったりしません」って言うんですが。「いや笑った。あなたは一年後男の子を産むでしょう。その男の子をイサクと名づけなさい。」そのイサクという名前は笑う者という意味なのです。
 
 笑うっていうのに二種類あります、二種類。笑うってのは楽しいことですよね。ニコニコして笑う。いつも笑っている。微笑みを絶やさない。「本当にすばらしい人だね」と言う。これはいい笑いです。笑いの絶えない家庭とか言います。そうありたいもですね。クリスチャンは笑い顔でいてほしいです。何か眉間にしわをよせて、難しい顔をしているんでなくて、やっぱり笑っていたいと思います。もう一つの笑いの意味はどういうことか言うと。笑止千万とか、笑い者にされるとか、もの笑いのたねとか、あるいは、笑い草とか、そのような軽蔑された、いわゆる絶望の笑いですよ。絶望の笑いが在るわけですよ。
 
 今日は自分のことを少し話させていただいて、そのようなことを考えて頂けたらと思います。「なぜクリスチャンになっているのですか。」 私は高校一年生の時初めて教会に行き始めたんです。ですから私は高校生に「高校時代に教会に行くのは本当に大事なことだぞ」と言うんです。「色んな人のいろんな話を聞いていると、高校時代に受けたヴィジョンというか、影響というものは、もう五十になっても六十になっても、ものすごく大きな影響を持つ。むしろそういう時になって力が出てくるから、若い時に本当にイエス様を信じなさいよ」っていうことを言うんですけれども。私は高校時代に行ったんです。まあいたずらざかりですよね。いたずらざかりの子供だったんですが、教会に初めて行きました。教会に行き始めてからですね、私はあんまり自慢することないんですが、それからずうっとですね、礼拝を休んだことがないんです。それだけは自慢ができるんです。試験がある時も、台風の時も、農作業で忙しい時も、教会だけはずうっと行っていました。それは何故かって言うとですね、私はね、自分でね、ずうっと思っているんですが、楽しくてしょうがないんです。教会へなんで行くのかと言うと大得したからなんです。笑いが止まりませんという感じです。だから「教会へ行って修業しているんですか。偉いですね。」 そんなのじゃないんですよ、私は。ええ話聞いて、立派な人に出会うととか、そんなんじゃないんですよ。そういうのなくて、私は大得したっていう感じが私を教会に結び付けているんです。それは今になってそんな思っているってのではないんです。高校一年生の時から私はそう思って、「次の日曜日いつ来るんやな」と思う。で高校一年の時、八月に行き始めてあんまり教会がないもんだからですね、週報を見て、今度の集会は何やなと思っ見たら「いっせい会」って書いてあったんですよ。いっせい会に出て、何か変な顔をしているので「何やなあ」と思っていると、「榎本君、今日は婦人会だったのだよ」と言われました。それほどですね。婦人会でも出たくらいですね。一生懸命、教会が好きだったんです。あんまり教会へ行くもんだから「洗礼受けないか」って言われまして、「いいです」と言ったんです。洗礼って何なのか判らないので家に帰って尋ねました。「おまえ、何言ってんだ。お兄ちゃんが教会なんか行って、家ものすごく貧しくなってんのに、おまえまでが教会行くのか。だいだいお前なんか悪いことばかりしているのに、受洗する資格ない」とか言われたんですけども。私はその時ですね、「つながっていよう」と思ったんです。「つながっていたら間違いない。こっちへ行ったらこっちに戻る可能性があるから。つるまっていたら大丈夫やな」と思ったんです。というのは自分にあまり自身がなかったからね。