〔『蛸石』:『大阪城 桜門枡形跡』:『大阪城公園』:(大阪府大阪市中央区大阪城1−1)にて〕

城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/812.html

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1大阪城:5年ぶりに『大手門』から入城し、巨石・史蹟を訪ねて城内さんぽ☆彡:2020.02.17

 

おはようございます!

 

さて、先日(2/17)は冬空で冷たい風吹く一日

 

所用で出かけた帰り道、

 

5年ぶり?に『大阪城』へ☆彡

 

正面の『大手門』から堂々入城し、

 

初めての観光客のように、

 

案内板に従って、巨石や史蹟を訪ねる

 

城内さんぽ^^v

 

『桜門』から少しだけ『本丸』へ

 

『天守閣』には登らず引き返して

 

紅白の梅花咲き誇る『梅林』へと

 

ご一緒に巨石・史蹟を城内さんぽ・・・^~^v

.                           【つづく】


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【大阪城公園】

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大阪城(正しくは大坂城)は日本でも有数の巨大城郭です。「大坂夏の陣」で廃墟同然となった大坂城(豊臣大坂城)は、1620年(元和6年)に徳川秀忠の命により天下普請によって10年かけて再築されました。豊臣時代の大坂城の跡に高さ数メートルの盛り土をして再建されたため、現在も地下深くに豊臣時代の石垣が埋まっています。現在ある天守は1931年(昭和6年)に復興されたものですが、櫓や門などは江戸時代のものが残っています。天守を中心とした大阪城公園には梅1250本、桜4500本が植えられており、春には花見客で賑わいます。また夜間には天守がライトアップされるため、夜景の名所としても知られています。なお豊臣時代の天守が32年、徳川時代の天守が36年と、いずれも短期間に焼失したため、現在ある復興天守(大阪城天守閣)がもっとも長命の天守となっています。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/

 

【大手口】

 

 

 

 

大坂城の大手門は1628年(寛永5年)、徳川幕府による再建時に創建された枡形門で、1783年(天明3年)に落雷により多聞櫓が焼失した際にも類焼を免れた貴重な建造物です。
現在は大手門を取り囲む土塀二棟とともに重要文化財に指定されています。
(なお幕末までは追手門とも称していました)

一の門は高麗門形式の門となっています。

城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/803.html

 

 

 

枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の侵入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石【おおてみつけいし】は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石【おおてにばんいし】は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠宏【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/803.html

 

【多門櫓】

 

 

大手口枡形【ますがた】の石垣の上に建つ櫓で、大門【おおもん】の上をまたぐ渡櫓【わたりやぐら】と、その右側に直角に折れて接続する続櫓【つづきやぐら】によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に再建された。土塁や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが、その名称は戦国時代の武将松永久秀【まつながひさひで】が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落し」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/803.html

 

【千貫櫓】

 

 

 

 

大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓【すみやぐら】である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/808.html

 

 

【石山本願寺推定地】

 

 

明応五年(一四九六)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。
 『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。

その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(一五三二)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
 石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。
 その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
 一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
 このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/806.html

 

 

【六番櫓】

 

 

二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は東から六番目であることから「六番櫓」という。外側にあたる南面と西面に石落としを1カ所ずつ設け、窓は外側を中心に26、鉄砲や矢を放つための狭間【さま】を多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをなしている。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)で、上層の破風【はふ】を飾る東西の懸魚【げぎょ】のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれている。面積は1階が約224.16平方メートル、2階が約133.43平方メートル、高さは約15.4メートルある。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/813.html

 

【桜門】

本丸の正面にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名所は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/811.html

 

 

 

 

【蛸石】

 

 

桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。

出典: https://kojodan.jp/castle/15/memo/812.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【蓮如上人袈裟懸の松】

 

 

 

 

大阪城の二の丸、内堀のそばに蓮如上人袈裟懸けの松があります。
蓮如上人というのは、いわゆる本願寺蓮如のことで、1496年(明応5年)この場所に石山御坊(のちの石山本願寺)を建立しました。

ここに蓮如上人が袈裟をかけた松があったと伝えられ、その切り株だけが残っていますが、そもそも現在の大阪城公園は豊臣時代の大坂城の上に徳川幕府が盛土をした地表面が基準となっているので、現在の地表に切り株があるはずがないのです。
(もしあるとすれば秀吉時代の石垣と同じように地中深くに眠っているはず)

とはいえ、このあたりが石山本願寺だったことはまちがいありません。

 

本願寺第八代蓮如上人は明応五年九月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し明応八年二月まで居住す。天文元年八月第十代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称す。ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。永禄十三年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。而して十一年間攻防の末天正八年三月勅によって和議なる。天正十一年豊臣秀吉大坂城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。

本願寺津村別院誌(抜粋)

 

豊臣秀吉が大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊舎をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。

出典:  https://kojodan.jp/castle/15/memo/807.html

 

【大阪ビジネスパークと大阪城梅林】

 

 

 

 

 

 

 

【大阪城梅林】