〔『水鳥』:『墨染ダム』:『墨染発電所』(京都府京都市伏見区深草墨染町42−8)付近にて〕

 

【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】


4鴨川運河:酒蔵から、日本初の電車動かした電気と水運支えた疎水を遡上さんぽ:2019.11.06

 

三か月も前の記事ですが、

 

近代日本の礎と所縁深い史蹟を巡る

 

『京都・伏見を町さんぽ』の最終編☆彡

 

酒蔵とかつては大坂(大阪)との水運の要所、

 

歴史深い京都の南玄関『伏見』に注ぐ

 

『琵琶湖疎水』の一部『鴨川運河』を遡る

 

遡上さんぽ!

 

最終目的地は、河原町近くのお馴染み

 

京都開業のお店で乾杯^^v

 

それでは、『近代日本の礎さんぽ』を

 

ご一緒にお楽しみください・・・^~^v

.                          【完】


【京都・伏見の町を史蹟さんぽ】

【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】

 

【黄桜・キザクラカッパカントリー清酒工房】(京都府京都市伏見区南浜町)

 

【鳥せい本店】(京都府京都市伏見区上油掛町186)

 

【会津藩駐屯地跡(伏見御堂)】(京都府京都市伏見区大坂町)

 

 

 

 

参考: https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu158.html

 

【源空寺】(京都府京都市伏見区瀬戸物町745)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源空寺(げんくうじ)は、京都府京都市伏見区瀬戸物町にある浄土宗の寺院。詳しくは宝海山法然院源空寺と称する。法然上人二十五霊場第15番。

寺伝によれば、蓮乗房忍空が住持する草庵だった。忍空は当初法然の「選択集」を非難したが、後に後悔して、専修念仏を行じていた。法然63歳の時、奈良東大寺の大仏殿、再建落慶供養の導師を努めた後、帰途、忍空に請われるままに、宿泊し説法をした。それを聞いた木幡の里の人びとは涙を流し、念仏の教えに帰依した。人びとが法然の御影を欲しがったので、法然は、書写して法語を書きためておいた紙を用いて、「張貫の御影」を作り、忍空に与えた。建久6年(1195年)、忍苦は草庵を念仏道場に改め、御影を安置した。

慶長17年(1612年)幡随意が徳川家康に願い出て、当地に移転した。

その後、嘉永元年(1848年)に火災で焼失している。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%A9%BA%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

 

【キンシ正宗 本社】(京都府京都市伏見区紙子屋町337−1)

伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。

古くは深草にて京都盆地の中でもいち早く水稲耕作が始まり、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社が渡来系豪族の秦氏によって創建され、天正時代には一大政治都市として桃山伏見城と大名屋敷群が、西に広がる淀川沿いの低地にかけて大手筋を軸とした城下町が形成される。徳川幕府初期には伏見城下に最初の銀座が置かれ、三代家光までの将軍宣下も伏見城で行われるなど幕府の政治拠点であった。その後伏見奉行が置かれ、淀川水運の重要な港町(伏見港)・宿場町(伏見宿)としても栄えるなど、昭和初期までは京都とは独立した別の都市であった。幕末期に、坂本龍馬をはじめとする討幕の志士たちが活躍した地としても知られる。

京都との間は街道や高瀬川で結ばれ、明治には鴨川運河や鉄道も早期に開通し、各地から京都への物資を運んだほか酒造などの産業も盛んであった。1931年に京都市に編入されて以後は、周囲の市街地化が進み、「京都の郊外」という色も濃くなっている。深草・伏見以外にも、城下町として栄えたや、醍醐寺が建つ醍醐などの地区が区内に含まれる。西部や南部は淀川水系の低地、中央には東山から続く稲荷山や桃山丘陵、東部の山間部は滋賀県境まで続いている。

京都市の11区の中でも最大の人口を擁し、平安時代の貴族の別荘地や天正時代以降の武家屋敷が立地していた桃山丘陵は現在も住宅地としても利用されているが、大部分は桃山御陵の広大な緑地が広がり、酒造に用いられる豊富な伏流水の水源となっている。城下町の伝統を受け継ぐ商業拠点である一方、京都市都心部や大阪方面へのベッドタウンとしての性格を持つ。

なお、豊臣秀吉が生涯を閉じ、徳川家康が将軍宣下を受けた伏見城のある桃山の地名は、織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その文化「桃山文化」などの呼称の元となっているが、江戸時代の『伏見鑑』が発行された頃から固定・広まったとされている。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%8C%BA

 

【琵琶湖疎水(鴨川運河)さんぽ】

【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】

 

【常盤橋】

 

 

 

 

 

【上板橋】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【関西電力墨染発電所】((京都府京都市伏見区深草墨染町42−8)付近

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鴨川運河(かもがわうんが)とは、琵琶湖疏水のうち京都市左京区の冷泉放水口から伏見区堀詰町までの8.9kmの区間の呼称である。この区間の工事は大津-鴨川合流点(冷泉放水口)間の第1疏水の工事が1890年に完成した後、1892年11月に着工し、1894年(明治27年)9月に完成した。京と伏見を結ぶ伏見街道(本町通)に沿って開削され、京阪本線が並行して走る。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%B7%9D%E9%81%8B%E6%B2%B3

 

【師団街道】

 

【大岩街道】

 

【第一群道】

師団街道(しだんかいどう)は、京都市の南北の通りの一つ。

現在の伏見区深草の地にあった大日本帝国陸軍第十六師団に因む。竹田街道の東に位置し、京阪電鉄京阪本線の西側を並行している。 北は塩小路橋東詰(塩小路通)で川端通につながり、南は国道24号を越えると伏見市街の京町通につながる。なお、大岩街道と交わる伏見区深草飯食町交差点以南は滋賀県道・京都府道35号大津淀線の一部であり南向きの一方通行となっている。

陸軍第16師団の設置に伴い、明治44年(1911年)に京都市街から師団司令部に至る国道として指定された。 終戦後に国道24号に指定されたが、昭和46年に国道24号は竹田街道に移った。

陸軍第16師団の設置に伴い、直違橋通(本町通)沿いにも師団司令部などの軍の施設が位置することになり、師団街道と直違橋通を結ぶために琵琶湖疏水(鴨川運河)と京阪電車を橋によって越える3つの東西の道路が陸軍によって敷設された。北からそれぞれ、第一軍道、第二軍道、第三軍道と呼ばれている。

軍道の開設は1909年、師団司令部設置(1908年)の翌年とされる。

第一軍道:京都兵器支廠と京都練兵場の間を通る道路であった。 砂川橋と西砂川橋で疏水と京阪電車をまたぎ、直違橋通(深草直違橋九丁目)と師団街道(師団街道龍大前交差点)とをつないでいる。現在は府道(京都府道201号中山稲荷線)の一部となっている。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E8%A1%97%E9%81%93

 

【餃子の王将 河原町店】(京都府京都市中京区 河原町東入備前島町317)