夢について思う。 | リトル・プーリームのプラスティック・スリル・ブログ

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テレビの低級化に抗し、マジで音楽を憂い、予言蔓延する世に悩み、
焦り多き家庭に困り、後悔伴う仕事に苦しみ、レーザー的に精密な
日本語の駆使に迷う中年男の見込み違いとニガリきった日々のアレコレ。

ハッピーな夢とダークな夢、どっちを見ることが多い? ブログネタ:ハッピーな夢とダークな夢、どっちを見ることが多い? 参加中



英米人は「ゆめ」を発音できない。彼らは、どうしても「ユー・メイ」と発音してしまう。

それはともかく、
(夜中に)夢を見ているときは充実感がある。

そして夢から醒めたときのしらじらとした気持ち、そのあじけなさ。

なんとも腹立たしい。

ときとして、死にたい気さえする。

たいていの場合、夢の中が心地良いわけではないが(知らない同級生に混じって何かの授業を受けていたりする。あるいは、死んだはずの父が元気そうに不可解な動きをしていたりする。)、その居心地の悪さも、適度に緊張感があって好ましい。

しかし、目が覚めると、不愉快極まりない緊張のただなかに連れ戻される。

不快な人間に囲まれて、生活をやりくりしていかなければならないことを痛感する。

いずれにしても緊張感を強いられるのだが、

夢の中のおどろおどろしい緊張感と、日々の無意味な緊張感(まったく無意味だ)は別物である。

ハッピーな夢というのは俺の記憶にはない。そもそもハッピーとは何なのか?(そんなものがありえるのだろうか?)

むしろ夢はダークなものだ。

いつも薄暗くて(室内の照明を点けようとして点かずに苛立つ夢もよく見る)、ダークな世界で、得体の知れない人々や、死んだはずの父親と、微妙な交流をもつ。というよりも、むしろ、交流できそうで、交流できない夢の世界の不思議な楽しさ。

現実の人間関係がつまらないのは、「交流」が起きてしまうからだ。

つまり、会話や視線がダイレクトで、しかし、それでいて、その場限りの交わりに過ぎず、もう会いたくない、また会わなければならない、その繰り返し、これが現実である。

夢のなかの人間関係は、もっと微妙なもので、知らない人と親しげに、知っている人とはよそよそしく、触れ合いが起こりそうで起こらない緊張がある。

いったいこの魅力は何なのだろうか、と思う。

……