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no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

うーん。こういう形式とは思わなかった。微妙に繋がるストーリー。オムニバスではないんだね。
3人の巨匠監督(オルミ・キアロスタミ・ローチ)のコラボレーション。


原題は「tickets」、まさに乗車券が数々登場します。
列車の中ではこれが唯一の「お札」であり、そこに存在しても良いと言う証であり、無いと大変。
でもその乗車券に懸けた思いというのは・・・乗客一人ひとり違う。重いものもあれば軽いものもある。
国も言葉も違う人々が乗る、インスブルックからローマまでの列車の中は、私たち日本人が思っているよりも、もっと混沌としていた。


そのなかで交わされる人々の交流やトラブル。

最後の話ではとうとう「乗車券が無い!」と言う事件が発生する。
イングランドのフットボールチーム、セルテッィクのサポーターの青年3人は、試合を見るためにローマへ向かう。みんなスーパーの店員として働き、お金を貯めてきたのだ。ところが、車掌が検札に来ると、乗車券が一枚足らない。アルバニアの移民の少年に疑いを向けるも、乗車券は一向に出てこない。それどころか、アルバニアの家族も、実はチケットが一枚足らないで乗っているということが発覚する。「難民の問題は僕たちにはどうにもならないさ」と呟く青年たち。しかし彼らは・・・自分たちに出来ることをした。


車掌がユニーク。2話ではウイットに富んでトラブルを回避するが、3話では痛い目にあってしまう。


列車の中では乗車券が唯一の「お札」であり、そこに存在しても良いと言う証であり、無いと大変。
列車の中では車掌が唯一の審判で、絶対的存在。


でも、列車を降りれば、両者ともその効力を失う。


ちなみにどの監督がどれを撮ったのかは全く知りませんでした。(最初にチラッと映りましたが早くて読めませんでした。)
私が一番好きな話は最初のオルミ監督のですね。情緒的でした。
2番目のキアロスタミ監督のは・・・ちょっと高齢の女性がヒステリックすぎて、イライラきてしまいました。でも「あの年頃の女は難しいからね」という言葉に、「女は若くても難しいさ」と言う返事は、面白かったなあ。
ラストは、ケン・ローチ監督だろうなと思いました。


最後に、セルテッィクの試合を観に行くサポーターの気持ち、よーくわかります・・・私もサポーターですから。(詳しくはこちら ~)


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これって、主人公の年代だと共感できるのかなあ・・・なんて観てる最中は思ってた。でも、良く考えてみると、オトコ・オンナ関係なく、また年齢も関係ないなって思えてきた。


関口(寺尾聡)の妻、敏子(風吹ジュン)は専業主婦。ところが、夫が63歳で急死、その葬儀の夜に夫のケイタイに女性からの電話が。「関口は亡くなりましたが・・・どういうご関係ですか?」


夫の10年にも亘る浮気の発覚、愛人(三田佳子)の登場。酷い裏切り。同時に、それに気付かなかった自分が許せない。そこへ、息子や娘との遺産話や同居の話が持ち上がり、ある日敏子はブチ切れる。カバンにとりあえずのものを詰め込んで、家出した先は、カプセルホテル。自分の知らない世界に入り込んだ敏子は、どんどんと「何か」を吸収してゆく・・・


いやいや、私もカプセルホテルって言うのがああいうモノだとは知りませんでした。ホントにカプセルっていうか「巣」みたいなんですね?トヨエツ曰く、「デパートの屋上って、人生の舞台裏みたいな気がしませんか?」って、いやこっちの方がよっぽどリアルな舞台裏だよ。

そこで思い切り自分の感情を吐露した敏子は、自分って何?自分のやりたいことって何?と初めて前向きに考える。

「自分は変わりたいのよ!」少しずつ、少しずつ・・・一人で映画を観に行くこと、妻子ある男性との一夜、部屋の壁紙替え、ケイタイ購入、新しい靴やバックや服・・・


そしていよいよ愛人との二度目の対峙。愛人から冒涜されながらも、彼女は強かった。妻と言う座にいるからではない。もはや妻と言う過去を抜け出していこうとする「自分」がいたから。それに対し、愛人は愛する人を失った「愛人」のまま、強気に見えたペディキュアもせずに、とても弱々しく見える。


家族から放たれて、過去から放たれて、自活してゆこうとする姿は、まさしく「魂萌え」。
何をしたらよいか分からずさまよう若人や、夢も希望もなく「ただ生きている」人々に比べて、彼女はなんて潔いことか。年齢を言い訳になどしない。


最後に、「失礼ですが、年齢は何歳ですか?」って言い方ほど、失礼なんじゃないかしら?
老いが恥なんて思わない人間もいるよ。
私は、いつでも堂々と年齢を言える人間でありたいなと思う。


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LIVERTINE


山形には来ることが出来なかった映画・・・DVDで鑑賞しました。


ジョニー・デップが脚本を3行読んで出演を決めたというのは有名ですね。
あの冒頭の、暗闇の中に浮かび上がるロチェスター伯爵が「私を好きにならないでくれ・・・」と語りかけてくるシーンは衝撃を受けました。


17世紀の英国、チャールズ2世の時代。後で世界史の教科書をひっくり返して見ましたが、清教徒革命後の王政復古の時代だから、動乱の時代なんですよね。


社会も乱れに乱れ・・・なんてたって才能はあるものの酒と女に目がない詩人ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモット(実在の人物)が「私のシェイクスピアになってくれ」と王の寵愛を受けている。芸術家はパトロンの庇護を受けて作品を制作する時代だが、卑猥な詩や戯曲もたくさん書いている・・・


でも、そういうのが人気を博すって、あるんだよね。もっと後の時代の英国だけど、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵を書いたオーブリー・ビアズリー、「イエローブック」など、卑猥なものが「絵」としてもたくさん出回る。いや、英国に限らないけれど・・・人間の中にはやっぱりそういう本質があるのだろうなと思わざるを得ない。


「リバティーン・・・道徳的(性的)に束縛されない人、放蕩者」


その放蕩ぶりはすさまじい。立派な妻エリザベスがいながら、家にはたまに帰るだけ。売春宿へ通い、酒を飲まない日はない。一方、芸術的な才覚は健在で、エリザベス・バリーと言う新米オペラ歌手に演技指導をし、立派な歌手に育てあげる。そして子弟の関係を超え、男女の関係になる。彼女との間に出来た子どもを「愛の結晶・・・」と呼んでいることから、伯爵の本当に愛した人は、歌手のエリザべスだったのかもしれないね。しかしながら最後は梅毒になって顔中血だらけになって無残に死ぬという顛末。

ここまでドロドロに、そしてエロティックに演じることが出来るのはやはりジョニー・デップしかいないのではないかなあ。フリルのシャツに長い巻き毛が似合いすぎる。


圧倒的な嫌悪感。それが、観ているといつの間にか嫌悪感は悪魔のような魅力にまで変貌するのではないか・・・?妻エリザベスも最期まで彼の妻であった。
「私を好きにならないでくれ」誰が好きになるか?と思いつつも、やっぱり惹かれていく。だって、現にロチェスター伯爵の戯曲があり、上演され、こうやって映画化までされているのだから。



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「ははあ、暴動だな。」「いいえ、陛下、革命でございます。」
1789年7月14日バスティーユ監獄襲撃の日、知らせを聞いたルイ16世と報告者との会話。
世界史の資料集にあったこの有名な言葉が出るかと思ったけど、出てこなかったな。


マリー・アントワネット。2006年、生誕250年だったそう。
誰もが知るこのフランス王妃を、ソフィア・コッポラ監督はどう描いたのか・・・主演はキルスティン・ダンスト。


予告編以上のドラマはなかったな、と思いました。まあ予告編が良くできていたということか。10回以上は観たからな。


あの作り出された色彩群は素晴らしかった!ブルーを基調とした部屋にこれまたブルーとピンクを基調にしたドレス、靴の数々。ものすごくおいしそうなケーキ、ケーキ、ケーキ。
女性などはそれだけでもうっとりしそうですが。


ファッションリーダーとしても華やかに君臨していた彼女。
でも、それは最初からではない。

王太子の関心のなさそうな態度や、周囲からの「お世継ぎ問題」に対する非難でひとり泣き崩れてから、大きく彼女は変わっていったのである。

まるで、ストレスで衝動買いをする、または大食いをしてしまう現代人と同じように。

それまではネックレスなどしなかったのに、急に付け出すようになり、はたまた髪の毛はトサカのようにどんどんと高くなっていく。夜会に頻繁に出かけ、マスクをつけては別な自分を楽しむ。彼女の心がそれで満たされていくことはなかったのだろうけれど。


しかし、子どもが生まれてから、彼女はまた変わる。宮殿と言う堅苦しいところから離れ、母として、また恋をするひとりの女性として。服装は穏やかでゆるやかなものを着用し、髪もゆるく流す。必要以上に着飾らなくなった。


最後、予断を許さない状況になったときにも、フランス王妃として、妻として、母として、最後まで夫ルイ16世とともに残る。


フランス王妃と言う立場を外せば、心の内は現代の女性と大差ないかもしれない。

ただ、映画としては・・・その彼女の変遷を追うだけであればちょっと退屈。時間が長く感じた。


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この映画を論ずることは、日本の裁判制度そのものを論ずることになるんだろうと思う。
それくらい、「映画」と言うよりはリアルな現実を見せてくれた映画ではないだろうか。
そして、「これが日本の裁判」だとしたら、我々は現状を知らなすぎる。
周防監督は3年間の取材や裁判の傍聴などを続け、脚本を書き上げたと言う。


「痴漢したでしょ?」女子中学生の摘発で現行犯で捕まった青年(加瀬亮)。「ボクはやってない」そう言い続けた彼の行く末は如何に?


警察の捜査、検察による起訴、そして裁判に関わる裁判官、弁護士。
「人ひとりの人生がかかっていること」に対して、彼らはドライだ。彼らにとってそれは仕事、事務、処理のひとつ。確かにそういう側面を求められるべき部分もあるだろう。しかし「慣れ」はずさんさを生み、人の人生を扱う仕事と言うことを忘れてしまう。


だが、それに対して一般国民はあまりにも物を知らな過ぎ、また自分には無関係という風に決め込んでいる。でもこれは、いつ誰にでも降りかかるものかもしれないのだ。いきなり当事者になったら・・・?


一方で、世間が「容疑者」の段階で犯人と決め込む風潮があることも否めない。要因のひとつとして、マスコミの過熱報道もあるだろう。

今日もまた、冤罪の事件の報道がされた。失われた時間は二度と戻らない。


さて、訴訟大国アメリカでは1957年にすでに「12人の怒れる男」が公開されている。
以下は、自分が学生のころ書いた文章だが、2007年の今日観た映画とこの映画で書きたいことはほぼ変わらないので引用する。


「法廷もの」というより「陪審員もの」の最高傑作。

12人の陪審員が被告であるひとりの青年の生死を決める。
しかし結論は全員一致でなければならない。
当初、11人が有罪(guilty、ここでは死刑)1人が無罪(not-guilty)を主張。
11人はその1人(ヘンリー・フォンダ)を説得するが逆に説得され、
ひとり、またひとりと無罪が増え、最終的には全員が無罪になるという結末。


重要なのは、「有罪」と判断するのに、少しでも不確かなことがあれば例え99%疑わしくともそれはnot-guiltyであることだ。
日本語では「無罪」という表現だが、「罪がない」のではない。
「innocent」ではなくあくまでも「not-guilty(有罪ではない)」なのである。


本来、人を裁くのは神の領域である。
しかし、人がせねばならぬとしたら、根底にはperfectがなければならない。
そこに少しでも疑わしいものがあるならば、有罪にはできない。
完全に感情を排し、客観的事実のみを見つめる。
世の中にそういうことのできる人がどれくらいいるだろうか…

しかし、できなくても、人を裁くことの本質を知っているならば、冤罪はきっとなくなるだろう。


もうひとつ、この映画はいかに人を説得させるかがキイになっている。
厄介なのは、感情論に陥っている者、そして差別・偏見を持った者。
この映画でも、被告の青年が黒人だったことが、事を更に複雑にしている。…

訴訟社会アメリカの一片を垣間見れる映画。


(1994.10.2記事)



最後に・・・加瀬亮の演技は良かった。彼は微妙な表情の使い分けが上手だね。


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