こんな副題をつけてはいけない。
原題は「ZIDANE un Portrait du 21e Siene」
大学時代、第2外国語はフランス語を選んでいた自分。辞書を見る限りでは・・・「ジダン 21世紀の肖像」かな。
例によって情報はほとんど入れていかずに観た。「ドキュメンタリー」らしい、くらいしか。
とは言え、一応サッカーサポですので、ジダン自体は知ってます。
映画としては面白いというか、変わった取り方。
2005年4月23日の「レアルマドリード対ビジャレアル戦」の試合。
数台のカメラが、いろんな方向から、あるときはテレビの画面を移し、あるときはスタジアムの上から、ひたすらジダンだけを撮り続ける。
サッカー試合を見ているのではない。ジダン以外はほとんど映らないので、試合の流れなどさっぱりわからない。歓声が沸いていても何に対してなのかもわからない。試合として見ようとすると苛立ちを感じる。
そのうち違うシーンに移るのかと思ったら、ひたすらこのままだ。
そうか、この試合だけを撮っているのか。
ということは、90分はこの状態なのか。
ジダンの息遣い、呟く言葉、引きずりつつ走る足、左手にしたテーピング、何度も手でぬぐう汗・・・
普通の試合の映像では到底見られない、感じられない、リアルな感覚だ。
ハーフタイムあたりで時折入るコメントはジダン自身のセリフ。
世界中で見れば、いろんなことが起こっている。嬉しいことも、悲しいことも。そして今、自分は試合に出ている。
しかし、何故数ある試合の中から、この日のこの試合を選んだのだろう。ジダン自身が自問しているようだった。
「チームが劣勢になると、どうやってもダメだと感じるときがある。」
「シナリオにでも書かれているみたいに、物事がうまく行かない。」
そうなのだ。どんなにチャンスがあっても、点を入れなければ、勝つことはできない。そしてそのチャンスは他のスポーツのように多くはない。ダメなときはダメ。敗北やスコアレスドローを何度も味わっている自分には、とてつもなくこの意味がわかる。
「1回だけ、ミステリアスな経験をしたことがある。自分にボールが回ってきたときに、次にどうなるのかが、自分には事前にわかったのだ。自分がゴールを決めると言うことが。」
そう、だからこの試合はどっちなんだよ・・・と言う思いで見つめていた。
しかし、映画は思わぬ展開で終わる。
ジダンへのレッドカード、退場だ。
上映時間が短い意味がわかる。
ジダン退場の時点では、レアルが勝っていた。その後どうなったのかはわからない。
「魔法はいつの日か解けるだろう・・・不意に。」
2006年のW杯を最後に引退すると彼自身が決めていた。
彼はこの試合と同じように、W杯のイタリアとの決勝で、退場により姿を消した。
ピッチを去った彼は、何をしているのだろうか。・・・彼自身の言葉のとおり、「緑色の四角形」を恋しく思っているだろうか。
この映画は、ジダンに魅せられた人間たちの、ジダンと言う1個の人間へのオマージュだ。
そこに映っているジダンは、神業を繰り出しチームを勝利に導くスーパースターではなく、苦しみ、悩み、時には激しく怒号を上げる(だから退場も多い)、1人のサッカー選手だ。
だから・・・「神が愛した男」などと言う超越したような副題は、そぐわないと感じたのだ。
彼は、敬虔なイスラム教徒だということを、後ほど知った。
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