【人は常に『変わらない』という決心をしている】

たとえば、『私は悲観的な性格だ』と思い悩んでいる人がいたとしましょう。その言葉を『わたしは悲観的な“世界観”を持っている』と言い換えてみる。

人はいつまでも、どんな環境に置かれていても変われます。あなたが変わらないでいるのは、自らに対して『変わらない』という決心をしているからなのです。

 

アドラーの心理学は勇気の心理学です。あなたが不幸なのは過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ“勇気”が足りない。いうなれば『幸せになる勇気』が足りていないのです。

 

 

【あなたの人生は『いま、ここ』で決まる】

『もしもYのような人間になれたら、幸せになれる』といいました。そうやって『もしも何々だったら』可能性のなかに生きているうちは、変わることなどできません。なぜなら、あなたは変わらない自分の言い訳として『もしもYのような人間になれたら』といっているのです。

 

アドラーの目的論は『これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生はどう生きるかについてなんの影響もない』といっているのです。自分の人生を決めるのは、『いま、ここ』に生きるあなたなのだ、と。

 

 

【なぜ自分のことが嫌いなのか】

なぜあなたは自分が嫌いなのか?なぜ短所ばかり見つめ、自分を好きにならないでおこうとしているのか?それはあなたが他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に恐れているからなのです。

 

 

【劣等感は、主観的な思い込み】

われわれを苦しめる劣等感は『客観的な事実』ではなく、『主観的な解釈』なのです。

 

 

【言い訳としての劣等コンプレックス】

アドラーは『見かけの因果律』という言葉で説明しています。本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。

 

もし、『わたしは学歴が低いから、成功できない』と考えているとすれば、それは『成功できない』のではなく、『成功したくない』のだと考えなければなりません。

 

 

【自慢する人は、劣等感を感じている】

『AだからBできない』といっている人は、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しているのです。『AだからBできない』という劣等コンプレックスでも我慢できない。『できない自分』を受け入れられない。そうなると人は、もっと安値な手段によって補償しようと考えます。あたかも自分で優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。

 

 

【非を認めることは『負け』じゃない】

人は対人関係のなかで『わたしは正しいのだ』と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。そう思った時点で、議論の焦点は『主張の正しさ』から『対人関係のあり方』に移ってしまいます。つまり、『わたしは正しい』という確信が『この人は間違っている』との思い込みにつながり、最終的に『だからわたしは勝たなければならない』と勝ち負けを争ってしまう。主張の正しさは勝ち負けとは関係ない。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも『負け』ではありません。

 

 

【『あの人』の期待を満たすために生きてはいけない】

われわれは『他者の期待を満たすために生きているのではない』のです。他者もまた『あなたの期待を満たすために生きているのではない』のです。

 

 

【『課題の分離』とはなにか】

あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。われわれは『これは誰の課題なのか?』という視点から、自分の課題と他者の課題を分離していく必要がある。

『馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない』自分を変えることができるのは、自分しかいない。

 

 

【対人関係の悩みを一気に解消する方法】

『自分の信じる最善の道を選ぶこと』その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。上司から認めてもらうことは、あなたの最優先で考えるべき『仕事』なのでしょうか?仕事とは社内の人間から気に入られることではないはずです。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。

 

 

【ほんとうの自由とはなにか】

『自由とは他者から嫌われることである』他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。『嫌われたくない』と願うのはわたしの課題かもしれませんが『わたしのことを嫌うかどうか』は他者の課題です。幸せになる勇気には『嫌われる勇気』も含まれます。

 

 

【無意味な人生に『意味』を与えよ】

世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ『わたし』によってしか変わりえない。



植物状態患者のケアに携わる経験はあったが、その患者の『生』の表現をしっかりと受け止めることができなかった。一方的に処置をしたり、体を拭くなどの技術を提供する事に終わっていたように思う。他方で、同じ苦痛で共に働いていた看護師Cさんは、植物状態の新井さんと何らかのやりとりができていた。このやりとりは、見る人によってはさまざまに解釈されており、ある人にはCさんがあたかもひとり芝居をしているように映り、他の人には本当に意思疎通できているように映っていた。

 

 

先日、出川さんのご両親が二人でお母さんの描いた絵を持ってきたんです。出川さんに見せているんだけど、彼見てるってふうじゃなかったから、私思わず『お母さん絵貸して』って言って絵を受け取って、『出川さんお母さんの絵触ってみて』って、彼の手を取って、絵の表面のでこぼこしているところに触られたら、出川さんの口角が上がって、目がキッてきつくなったんです。表情がすごく変わったように見えたんですよ。思わず出川さんのお父さんお母さんの三人で大声で『いい顔しましたね』って言って見つめ合っちゃいました。

 

 

Aさんが勤務以外に病棟でケアをしているところをたびたび見かけた。そのことについて。

プライマリーとして把握しておきたい。実際に見てっていうのが、ひとつありますよね。例えば、なんだろう。記録にその日の受け持ちが、本体ならその日の受け持ちが記録に書いたものを私が見ればいいんだろうけれども、記録ってどうしてもモレがあって、じゃあここはどうやったんだろうって、プライマリーとして疑問に思うところと一致するとは限らないわけですよね。どうしても。だから、やっぱり着実に彼女の状態を責任もって把握しとかないかんのがプライマリーやから、プライマリーとしてきっちりというか、ちゃんと自分の目で見ておきたいというのはあるから残る。‥‥帰れ帰れって言われますけどね。

 

 

【可能性の実感】

すごくレベルの低い患者さんだったけれども、今まで体を起こすっていうリハビリの端座位をやったんですけれど、枕の置き方によって、ひとりでこうやって坐っていることが分かったんですよ。あっ『坐れる』って。どこかに人間坐ろうっていうことは、自分の中でバランスを保とうとする意識が、きっと力が働いている。っていうことなんじゃないかなって私は思ったから、だからその中にそれが出てきているんじゃなういかと、で、しかも支えようとすると思えば支えられるだけの能力がどこかに、手なり足なり体の中にあるってことなんかなぁ、それすごいうことやなぁってみんなで盛り上がったんですよ。

 

 

医療現場での癒しっていうのはむしろ、患者だけが癒されているんじゃなくて、その周りにいる人も癒されて、患者によって癒されているんじゃないかっていうふうに私は思うけれども。それに通じるものは、結局こちら側にある。裏を返せばすごい看護師サイドの独りよがりな感情の走りになってしまうかもしれないですけど。笑わすという行為一つとっても。笑わすことで誰が喜ぶねんっていったら、いちばん喜んでるのは自分たちかもしれないってのはあるけど。患者さんはしゃあなく笑ってる可能性はある。ただでさえ、こちらサイドの独りよがりになりかねないっていう危機感をここのセンターで関わる看護師は持ってると思うんですよ。独りよがりにならないように、看護師の思い込みだけで突っ走らないようにとかっていう思いは持っていると思う。それを笑わせる、笑ってもらうっていうので、場を共有した、することができた、空間を共有することができたっていうその手応えが欲しいから、そういうことやるのかな。

 

 

Aさんは一見無意味にも思われる雑談が、もしかしたら患者にとって非常に意味のある関わりになっているかもしれないと考えている。患者に確認したり、何かを聞いたりという目的をもった関り以上に、なにか影響力のある関わりになり得るのではないかと。

 

 

Aさんは患者の潜在能力を引き出すためとはいえ、常日頃から自分たちが意識して意図的に関わっていることがかえって、患者との本音のつき合いや自然な関わり合いを妨げてしまっているのではないかという。つまり、Tセンターの看護師はつねに、患者がどの程度こちらの言っていることを分かってくれたかということを確認しようとしたり、手足がどの程度動くのかをチェックしようとしているというのがある。このような『下心』見え見えの関わりは、簡単に患者に見抜かれてしまい、無視されてしまう。人が本心を開示してくれているときというのは、言葉を操ることができようができまいが、やはり本音のつき合い方が成立したときであるということを、AさんはTセンターの患者たちから学んだようである。

 

 

『人間坐ろうっていうことは自分の中でバランスを保とうとする意識』や『力』が働いており、住田さんにこのような『力』が『出てきているんじゃないか』と考えていた。さらに、『支えようと思えば支えられるだけの能力がどこかに手なり足なり体の中にある』のではないかとも言っている。このように毎日、住田さんと触れ合いながら関わっていたAさんには、住田さんの<身体>のどこかに何らかの『力』が残っていること、あるいは住田さんの<身体>から何らかの『力』が湧き出ていること感じとれていたのである。こうした表現は坐位をとらせようとしたときAさんの<身体>が知覚した、住田さんの<身体>の存在、を指し示していると考えられる。だからこそAさんは住田さんを支える枕の位置や住田さんと触れ合っていたかは定かではないが、彼の<身体>に触れる、そして支えとなるという行為は、幾度となく繰り返されていたにちがいない。