皆さま、おはようございます!

 

アスペ一家の代表代行、最高家事責任者、メットライフ生命専属代理店の岩堀由美子です。

 

今日はこれから高3のアスペ娘の面談のため親子で学校へ向かいます。京都芸術大学附属高の一期生として入学した娘も、残る高校生活はあと半年、9月には進学に向けた選抜も始まります。このタイミングで学校生活と学業評価における合理的配慮の再確認をお願いするつもりで、2年生の終わりにSKCキッズカレッジで発達検査とLD検査をしてもらいました。検査の予約と報告書の作成には相当の時間を要するので、かなり早めに動きました。今日はその検査報告書を担任の先生を通して提出する予定です。

 

あと、今日は第3回配布レポートの提出期限です。レポートは通信制高校の学びの柱ですので、さすがに結構な量があり、書字障害の娘には去年の夏から代筆のための家庭教師をつけています。とはいえ、文章量があまりに多いとさすがに家庭教師の先生に申し訳ないので、今朝は娘のスマホから私のPCにメールで送り、Wordにコピペして印刷しました。

 

一読しましたがどういうお題のレポートかわからないので尋ねると、3分間のスピーチ原稿だということでした。なるほど、そういう事かと思い、「これってブログにあげていい?」と娘に確認のところ、「別にいいよ」と軽くOKしてくれました。前にも書きましたがレポートの形式は教科によって色々です。これは長い方です。以下、コピペです。

 

突然ですが、みなさんは「正しい日本語」を使いたいと思いますか?言語で人と繋がる社会の中では、誰もが言葉を正しく、巧みに使いこなすことへの憧れ、または必要性を感じているのではないでしょうか。もちろん、私も常日頃からできる限り正しい日本語を使うことを心がけています。それが口頭でなく文章であった場合は尚更です。しかし、同時に「正しい日本語」という定義に疑問を持つこともあります。それは本来、私たちが考えるよりずっと曖昧なものなのではないでしょうか?それは言葉に相反する二つの特性が混在しているからでしょう。この世に言葉を使用しない人間はほぼ存在しません。言葉は間違いなく、人類文明史上もっとも汎用性の高いツールと言えます。現に、私たちは言葉を使いこなすため、日々学校で国語の勉強をしています。いちばん最初に述べた「正しい日本語」というのは、おおむね国語の教科書に載っているようなもののことをさすのでしょう。教科書には文法の、辞書には単語の意味の“正解”が書かれています。しかし、仮に私たち全員が完璧な日本語を習得したところで、それだけを使うのかと言うと答えはNOでしょう。なぜなら言葉を使うのは生きている人間で、言葉もまた、人間と共に生きているからです。言葉は型にはまったツールであると同時に、進化し続ける生き物でもあります。しばしば私たちは、日本語としての“正解”を知りながらも、あえて言葉を崩し、本来の文脈や単語が示すものの外側の感情や感覚を表現しようと試みることがあります。それは一つの視点から見ると「誤った日本語」になるかもしれません。では何故誤った日本語はいけないのでしょう。「正しい日本語」とは、多くの人に何かを正確に伝えるために存在するものです。しかし、伝わる範囲は時代の変化と共に変わってゆきます。現に、私たちは江戸時代の人々が使っていた言葉を使いませんし、辞書に乗っている単語が示す内容も、その時代の大衆が共有する概念と共に書き換えられています。だとすれば、現時点での「正しい日本語」のルールを逸脱した言葉たちも、場合によっては社会に溶け込み、定着する可能性があると言えるでしょう。言葉という生き物は、常に「正しさ」という首輪で繋がれています。しかし、その首輪自体も長期的には形を変え、少しづつ原型から遠ざかってゆきます。そしてそれがどんな風に変形してゆくのかは、言葉に繋がれながらも、言葉を飼い慣らそうとするわたしたち次第なのです。

 

以上

 

私の娘は小さいころから描けて作れて歌えるアスペさんですが、書きまくりの高校生活も、なかなかに素晴らしい経験になったなぁと母として満足です。

 

あらあらあら、ちょっと急がないと。。。

それでは皆さま、また、近いうちに。