今日はなぜか友達と恋愛について議論して、そんなものは語るもんじゃなくてやるもんだと思ってきたが、よく考えたらもう恋愛はしそうにないので、ひとつ語ってみんとてすなり。

 

ちなみに中国語では恋愛の動詞は「談」「talk」である。「恋をする」は「談恋愛」で、これを英語のdoに当たる「做」に替えて「做愛」というと「make love」すなわち「セックスする」 の意味しかなくなる。

 

愛の基本構成要素は心と身体と時間である。

 

あなたのすべてが欲しい

私のすべてをあなたに捧げる

 

という場合の「すべて」は、心と身体と時間のすべてという事であるが、正確には自分の自由裁量の元にある範囲の「私の心と身体と時間のすべて」というくらいの意味になる。

 

とはいえ、恋の正しい動詞は「落ちる」であり、自分の感情を冷静に分析していられる状態を私の定義では恋とは呼ばない。恋愛をしているというのは、感情のコントロールが失われ、無制限に「すべて」を要求し差し出せるという共同幻想が二人の人間の間に成立しているような状態をいう。

 

こう考えると、恋愛は誰もが落ちるものではなく、落ちやすい人と落ちにくい人がいるのは当然のことである。

 

ちなみに、恋愛と結婚は関係はあるが同じものではない。結婚というのは人類が発明した繁殖と社会の安定を同時に担保する制度であり、結局のところ恋愛とは別の基準において、他者と残りの人生の時間を一つの単位として戦略的互恵関係を結ぶものである。とはいえ、恋愛の結果としての結婚という形態が、現代においては最も広く推奨されているというところに異論はない。

 

さてさて、恋愛を構成する三要素が独立して、あるいは相互間でのバランスを欠いて、時には時間的ずれを生じながら存在することがある。このように不安定な恋愛こそが実は恋愛関係の常態であるといえるほどに、数多くみられる現象である。

 

恋愛関係の維持には信頼や思いやり、誠意、情熱などが要求されるが、これらは恋愛の基本構成要素ではない。それらが欠けた状態でも恋は始まり、しばしば不幸な恋愛関係を構築する。歪であれ幼稚であれ、恋は成立するところには成立するが、いくら信頼や愛情があっても、それだけでは発生しない。

 

あなたが好きな相手に求めているのは何だろう?「すべて」じゃないとしたら、あるいは経済的安定や社会的地位であるならば、それはやっぱり恋とは別物だと認識しておいた方がいい。たった一度の人生なので、他者との恋愛関係を経験するのは素晴らしいことだが、そこに生産的な意味はないと理解しておくべきだ。

 

それでも、古今東西、人が文字通り恋に命を懸ける例は枚挙に暇がない。その存在を否定しえないのが恋愛である。

 

これが即物的かつ恋愛体質の私が語る恋愛だ(笑)