私の夫は中国人アーティストです。

 

中国内陸部の軍事産業集積地で巨大国有企業が廃墟と化してゆく最終段階に立ち合い、変遷する人と社会の在り方を歴史的に検証、記録し、実験的な方法で作品にしています。どんなに淡々と進めても、人間性に対する社会構造の影響を批判的に描き出してしまう傾向がありますから、政治的な活動と観られるのは仕方のないことでしょう。

 

王さんは素晴らしい絵も描きますが、画家と言われることを好みません。音楽もそうですが、美術においても中国の教育は技術的にはエゲツなく高レベルだったりします。結果として、それなりのレベルの人々の間においては、「芸術とはコンセプトに過ぎない」という価値観が共有されていて、素晴らしく美しい絵を描いて物凄くリッチな生活をしていても、「彼は芸術家じゃなくてただの画家だね」と言われると、ちょっと俗物的な感じになります。とはいえ、王さんにしても経済的に価値を評価されるのは絵画だけなので、やりたいことをやって生活していくためには絵を描くしかありません。いつも妻の私には「芸術やってるからお金がない」と言いますが、わずかな時間を絵画の制作に割くだけでこれだけの活動を支える経済力があるんだから、妻に渡すお金がないのは自分の芸術に使ってしまうからだと思います。彼はとてもよい夫ではありますが、昭和的な意味では無頼派といえるでしょう。たぶん私はそんな夫を自由にさせておくことが愛だと考えてきたわけですが、日本の現実を生きることがなかなかに厳しい今日この頃は、彼と私の生きる世界が互いに何の関係もない気がしてきます。たぶん夫婦の間にあるのは承認と信頼で、互いに支えあったりはしていないからです。

 

そんな王さんのお仕事を、寺江圭一郎さんという方が日本語で紹介してくださいました。

 

「上海ビエンナーレで王海川が提示する、現代中国社会のひずみ」

http://bitecho.me/2016/12/08_1344.html

 

王さんのお仕事を私が紹介するのは適切ではないというか、私が分析したり批評することを彼は望まないでしょうから、寺江さんにはとても感謝しています。

 

王さんの描く絵は私を感動させてくれますし、語るコンセプトには感銘をうけますが、夫の仕事に誇りを感じるほど私は妻として貢献していません。精神的に遠くて、少し虚しいです。それは、私が中国社会から離れてしまったからだと思います。かつての私の研究対象であり、激しい興味と情熱の対象であった中国は、いつしか、自分の産んだ「娘」という圧倒的な存在に代替され、私の時間も能力も情熱もすべて子育てに向かってしまいました。そんな私を中国の義母は、「ゆえの今日あるは、すべてゆみこの功績だ。あなたの知性と犠牲的精神に基づく献身の賜物だ。私たちはゆみこを模範とし学習しなければならない」などと絶賛してくれますが、発達障害児の子育てをしていて、これほど姑に褒められている嫁は私くらいじゃないかと思います(笑)。

 

さてさて、王さんは来年の春節には東京でイベントに参加するかもしれません。絵画の展覧会ではなくて、学術的な発表のようです。きっと京都にも娘の顔を見に帰ってくるでしょう。なんだか、私たちが「私たち」であることの意味がよく分からなくなっていますが、彼にはいつも自由でいて欲しいし、もっと自由になって欲しいと願います。