中学1年生の娘は明日から試験なのですが、とりあえず当日受けに行ってくれればありがたいというレベルです。本人は試験の事を考えるのも嫌みたいで、別室受験や問題文の読み上げなど、娘のための個別支援を考えてくださっている先生方の方が、うんと緊張して取り組んでくださっている感じです。今回は感想を書く問題もあるという事で、先生の方でもずいぶん悩んでくださっているようなので、今回うまくいかないようなら、スマホの持ち込みを検討してくださいと伝えました。まあ、スマホは機能が多すぎて試験会場に持ち込むのは不適当なわけですが、通信機能のない空っぽのスマホをワープロ代わりに持ち込ませてもらえるとありがたいです。タブレットはひらがな変換だと50音全部が出てきてしまい娘の目には多すぎるので、スマホがありがたいのです。

 

ちなみに娘は昨日、スマホで展覧会の感想文を書いていました。マリー・ローランサン展を観た帰りのバスの中で書いたのだと思います。字は書けないけど文章が書けないわけじゃない・・・こういう事があるのだと、もっとたくさんの人に理解してほしいと思います。

 

以下、無校正のコピペです。

グレーを観て、こんなに目眩がしたのはおそらく初めてです。ピンクを観て、こんな不安に駆られたのは、完全に初めてのことです。
マリー・ローランサンの画き出す女性たちを、私は愛らしい女性用小物か、砂糖菓子の様に思いました。しかし、それらの印象はただ単に「可愛らしい」だとか「美しい」と言う意味だけを持っているわけではありません。彼女たちからは、「人間らしさ」だとか「生々しさ」と言うものが、一切感じられないのです。
絵画なのだから、当然ではないか。と言われるかもしれませんが、そうではないのです。
私は今までにもそれなりに絵画を観て来ましたが、いいえ、キャンバスに描かれた「人物」達を観て来ましたが、彼らからは、いずれも何か「生き方」の様なものが感じられました。
それは、私が思うに画家という人たちはどんなものを描いても、自画像にせざるを得ないからです。たとえ対象が 静物でも、動物でも、友人でも、それは結局、自分の魂を描いているわけですから。画家の作品と言うものは、創造者だけを映す鏡だと思います。だから、そこからは一種の「生々しさ」が生まれるはずなのです。しかしマリー・ローランサンの描く女性たちは、その「生なしさ」全てが、淡い香しさへと変わっているのです。そして その香しさは、私に底知れぬ不安と心酔感を与えるのです。
私は彼女の絵を観ている途中ずっと、足元がふらつき、涙腺が緩むような感覚に浸っていました。そのグレーとピンクを観つめていると、そんな風になるのです。そして私はいつしか、その淡く深い色彩の中から溶けるように私を見つめる黒い瞳に気づくのです。

これが、初めてのマリー・ローランサンの感想です。