たいへんありがたいご縁があり、中一の娘の学校を休ませて三泊四日で香港旅行してきました。
香港へ初めて行ったのは30年近く前、まだ20歳の時でした。初めてのアジアに私は完全に魅了され、香港に恋してしまいました。渦巻く欲望のパワーが炸裂しているような雑踏の中、スタイリッシュなビジネスマンや着飾った女性たちだけでなく、バブル真っ盛りの当時の日本の街中では見かけないような、高齢者や小さな子ども達が街に溢れる光景に圧倒されました。高い経済力を見せつけるような美しい高層ビル群、猥雑感満載のケバケバしい電飾看板が連なる街々、ここは南国なのだと主張する生命力旺盛な緑の木々、半島側と香港島を分ける海の怪しい美しさ・・・私はいつか香港に住みたいと思いました。
政治的な要素を排して資本主義を実践してみたらどんな社会が現れるのか、そんな歴史的実験を目撃しているような気がして、本当にワクワクしました。香港の雑踏に飲まれ立ち尽くすとき、確かに、人類の歴史の成長点の一つに立っているという実感がありました。その後の何十年間、たくさんの事情があって私は香港にたどり着けませんでしたが、香港はいつも私の憧れでした。思えば、私が中国と出会い深入りするきっかけになったのも、1997年の香港返還です。当時の私は香港返還を西側から「喪失」として受け止めることには耐えられなくて、文字通りの「返還」「棚ボタで転がり込んでくる宝石」として、中国側から香港を眺めようという思いがありました。
そんな思い入れ深い香港を娘に見せたいという思いは強く、お友達のご厚意で突然に決まった香港旅行に、娘の特性を忘れて同行させてしまいました。というか、香港の持つパワーは必ず娘にも響くと無条件に信じてしまったのでした。結果として、アジアの雑踏の圧倒的なパワーに飲まれてのんびり生命力を充電し、鬱脱出のきっかけにしようという目論見は完全に外れてしまいました(笑)。いつも以上に「おかあさん」として、娘のサポートをする羽目になってしまったのです。まあ、4日間も24時間娘とがっつり向かい合うなんて最近はなかったので、この時期としては非常に貴重な体験ではありましたが。
初めに断っておくのですが、今回の旅行で私たちはセントラルのショッピングモールにもビクトリアピークにも行けなくて、ほとんどの時間を九龍公園やチムサッチョイをうろうろして過ごしました。いろんな条件が重なって、街のど真ん中の集合ビルで中国人が経営する安ホテルに泊まったのも娘には衝撃が強すぎたようです。まあ、私は青春を取り戻したようで少なからずテンションを上げていたのですが(笑)。もしも、香港島側の高級ホテルに泊まって、おしゃれな場所でお散歩やウインドウショッピングに明け暮れていたら、娘の香港に対する印象はずいぶん違ったかもしれません。でも、もしもそんな旅行でも今回と同じような感想を聞かされていたら、私の方がショックで崩壊していたかもしれません。娘の香港に対する印象は絶望的に辛辣でした。
「ドキドキしない」
私は「中途半端」なものや「折衷」が嫌い。何がだめって人が格好良くないのが無理。どうしてみんなこんなにいい服をきておしゃれな小物持ってるのに、表情や動きがダサいの?何も欲しいものがない。キラキラしていない。
ぶつぶついいながら歩く娘に、私はひたすら日本語のわかる人がいない事を祈っていました。
しかも、最近ではずいぶん耐性がついて落ち着いていたので、すっかり気を許していたのですが、物凄い人の多さと騒音と匂いで、発達障害の最大特性の一つ、感覚過敏が爆発してしまいました。二日目の午後、娘はセントラルの雑踏で過呼吸に至り、嗚咽をこらえぼろぼろ涙をこぼしながらも、タクシーの拾えないまま街を歩き続け、地下鉄でホテルに戻るまで持ちこたえました。ある種の発達障害児の保護者さんたちはよくご存じでしょうが、公共の場所でのパニックは大惨事です。親は慣れているので鉄の心臓で嵐が去るのを待ちますが、本人はプライドが粉砕されますし、下手をすればトラウマになります。そんなわけで学校などではくれぐれも過度なストレスをかけないようにお願いして、過保護ぶりを発揮している私ですが、今回は24時間私がフォローできる環境下で、これくらいのストレステストができたことは収穫でした。ご一緒していたお友達にはご迷惑をかけ申し訳ありませんでしたが、娘はとても強い自制心とコントロールを見せてくれて、ここまで成長していたのかと嬉しくなりました。(もちろん、帰宅後に報告したところ、私の父は激怒していました。)
さてさて、今回の香港旅行で関わったたくさんの人たちは、今の香港を生きているという意味では誰もが香港人なのでしょうが、何代も香港に生きてきた香港生まれの香港育ちという人には、不思議なほど出会いませんでした。それでも、朝の九龍公園の様子は変わらなくて、たくさんの人たちが太極拳や体操をしていて、「日本の年寄りと全然違う」と娘を驚かせたりもしました。香港は一貫して移民の街でした。それでも、この20年間に香港が大陸に飲み込まれたという感覚をぬぐうことはできませんでした。私は大陸の中国人も中国も大好きなわけですが、かつて愛した香港が中国の大都市の一つになってしまったような感覚には、やはり大変心が痛みました。移民によって街が変容する、それは歴史の流れの中では繰り返しおこる自然現象なのでしょう。ただ、どうしてもさみしいです。青春の残像を追うような虚しいさみしさです。
娘は私の愛した香港を徹底的に批判しましたが、不思議に「香港が」嫌いだとはいっていません。たぶん、彼女には過酷すぎる環境であり、彼女の愛する種類の美や調和や洗練は得られなかったのでしょう。それでも、毎日たくさんの場所を歩き、飲茶や亀ゼリーやエッグタルトを美味しいと言い、さまざまな人々を観察し、コミュニケーションの経験値も上げ、少しはある種の自信もついたようです。京都へ帰るバスの中で娘は、香港に旅行に行った事はよかったと言いました。「のんびり」も「充電」も失敗した私ですが、子育てとしては素敵な経験ができたと思います。
いつかもっと成長した娘と、さらにディープな香港に出会いに行ければと願います。




