みなさん、ご心配をおかけいたしましたが、娘は想定外のスピードで復調しつつあります。学校とも程よい距離ができたようで、ぼちぼちと自分のペースで登校したりしています。半月ほど娘の部屋を占領していた夫も中国へ行ってしまい、ニトリでリネンやクッション、カーペットをそろえ、取り戻した自室のイメージを一新しました。娘の部屋のインテリアは緑→ピンク→青→茶系と変遷してきたのですが、私の部屋を占拠し実行支配にいたって以来、今度が4度目のイメチェンです。子どもには贅沢な話だとおもいますが、娘が心の安定をたもつためには、視覚的にコントロールされた整然とした空間が必要なのだと理解しています。

さてさて、先日、京都の町中を娘と歩いていたら、突然の着信に応えて不思議な事を言い始めました。普段は歩きスマホなどしない娘の行動と、出てくる言葉にひたすらドキドキしていました。

曰く、

すべての人に母親がいて、一度は一体やったというのは逃れられへん事実やねん。この人のおなかの中にいたことがあるとか、この子は自分の内臓の一部やったというのがあるから、お互いに自分の延長線上でしか考えられへん。だから遠慮がないし、感情的になるし腹も立つ。でも、お母さんも一人の人間やねん。自分の母親である前に、一人の人間であり女性であり、お母さんにはお母さんの人生がある。お母さんが自分とは違う一人の人間やということをしっかりを押さえておけば、理性的に話し合えるし、腹も立たへんし上手くいくと思う。自分の延長線上で勝手に相手の考えを解釈するから、間違って難しくなるんやん。とりあえず、一人の人間として話を聞くしかないねん。こんなんでいいかな?じゃ、歯医者さんについたし切るね。

娘がこんなに流ちょうな京都弁で話す相手は一人しかいません。実は、自由なことで有名な遠方の学校へ進学したお友達が、『お母さんとケンカしました、どうやって仲直りすればいいでしょう?』という作文のお題をいただいて相談をしてきたようです。いい授業受けてるなぁと思いましたし、授業中に抜け出して電話で友達にヘルプ求められる環境もすごいと思いました(笑)。

しかし、娘がそんなことを思っていたというのは初耳だったので吃驚しました。たぶん、私はいたらない母親なので、娘には私に対する不満や腹立ちも多々あるのだろうと思いました。それをあきらめて受け入れ消化する過程で、娘は私との距離をつくってきたのだとも思いました。

私と娘は本当にケンカしたことがありません。それは、私が娘を怒らないからだと思っていましたが、どうも根本的に違うようです。私が娘に対して感情的になりにくいのは、娘に人としての人格を認められていたからだったのかもしれません。アスペ同士の親子がうまく付き合えているのは、12歳の娘に負うところも大きい気がします。

「母親について語るなあ」というと、「グザヴィエドラン観て考えてるしな」という短い返事。まだ若い美し過ぎるゲイのカナダ人監督。今の娘のお気に入りです。