勉強法は生きていくためのサバイバル法
 ここまで、私が勉強してきた経験を時系列に書いたが、最後に処世術まで書いてしまった。字を書くところから始まって、英語で修士論文を書き、中国で仕事をするところまで、ずいぶん遠いところへ来たものだと思う。その後も、生命保険募集人として勉強や修行は続くのであるが、その話は又の機会にしたい。私が伝えたかったこと、「苦手なことは人に頼ること」、「1対1で口頭で勉強すること」、「勉強の目的をはっきりさせ、目標達成に必要ない事に拘らないこと」、「勉強出来る状態とは楽しい状態であること」などなど、大切なことは勉強の前提に関わることが多かったかも知れない。ここで最初の出発点を振り返れば、「無理やり字を書かされなかったこと」、「学習を強要されなかったこと」、「学校をやめさせてもらえたこと」、「自分がしたいことだけをしてこれたこと」が、すべての始まりだと思う。あの時期がなければ、その後の勉強したいという気持ちも、人生さえもなかったと思う。
 あんなに勉強しなくても生きてこられたなあ、という気持ちと、あの時期を生きるために必要なことが勉強だったんだなあ、という思いがある。必要だったのは基礎学力でも知識でもなかったし、結局、今もなにも出来るようにはなっていない。ただ、生きている私がここにいる。人間は、その時その時を生きるために、必要な事をやればよいのだと思う。何歳だからこのカリキュラムをこなさないといけないとか、ここまで出来なければいけないということから、自由になって欲しい。私は私の娘について、「勉強させなくて心配じゃないか」と聞かれると、「勉強はもう私が充分したから」と応える事にしている。彼女には幸せに生きて行って欲しいし、自分のしたい事を見つけて欲しいと思うが、そのためには自己肯定感をもって、安定した発達をし、二次障害を起こさずに思春期を超えて行って欲しいと願う。その中に、字が書けるようになるとか、計算が出来るようになるという、具体的な目標は設定していない。パソコンで文章が作れるようになればいいなあ、とか、計算機の使い方を覚えられればいいなあ、と、なんとなくは思うが、今はその時期じゃないと思う。待っている。いくらでも信じて待とうと決めている。