外務省の専門調査員時代

専門調査員になったわけ
最後に少しだけ、仕事をしていた時期の事を書こう。私は30歳の時、外務省の専門調査員に採用され、2年間の契約で中国重慶市で働いた。現在は領事館になっている当時の出張駐在官事務所で、中国内陸地域経済を調査する研究職についたのだ。専門調査員に応募した経緯は、単純に、中国へ帰りたかったこと、そして残念なことに、当時在籍していた日本の大学院の博士課程に適応できなかったという事があった。ロンドンから帰った私は関西大学大学院経済学研究科の博士課程後期課程に入学したのだが、それは友人がとてもいい先生を紹介してくれて、その先生と一緒にいるのが楽しかったからである。
もう亡くなってしまった石田浩先生は、中国経済の専門家であったが、私が大学院へ入ったころには台湾経済の専門家として知られており、中国に対しては可愛さあまって憎さ百倍というようなスタンスであった。当然、先生の周りに集まっていた人々は台湾経済を専門とする人々で、私には共通の話題があまりなかった。それでも先生と二人きりの時間はとても楽しくて、中国の近代はいつ始まったのかと言ったような話で盛り上がったが、先生と二人きりの時間を除けば、私には毎日の学生生活がたいくつで苦痛になっていた。「事実を明らかにする」という実証研究のスタイルにも、あまり興味を持つことが出来なかったのであるが、「中国の中央政府が、開発の遅れた内陸部を優先的に発展させると言っている今、現地では何がおこっているのだろう」という事には興味があった。というわけで、私は外務省の専門調査員の募集に応募した。
そもそも、その専門調査員の募集条件は、中国経済を専門とする、博士課程後期課程在学以上の学歴で、中国語が出来る者ということであったので、日本中でもそんなにたくさんのライバルがいるとは思えなかった。また、当時の重慶市は世界で最も空気の悪い都市の一つとして知られており、環境改善のために日本から開発援助が入っていたくらいで、開発に関心のない普通の経済学者が行きたがるような場所ではないと思われた。実際、書類審査を通って面接を受けたのは私を含めて3人だけであった。私が修士課程を過ごしたロンドン大学東洋アフリカ研究所(SOAS)は、実務的に使える人材を育成する教育でも知られていた機関で、4人の同級生がインドネシアとフィリピン、モンゴル、南アフリカの専門調査員として採用されており、私が選ばれたことも、そんなに難しい不思議なことではなかった。
 駐中国日本大使館重慶出張駐在官事務所に赴任してみると、日本人は私を含め6人で、後は中国人スタッフばかりであった。毎日新聞を読んだり、現地の政府筋やマスコミ、財界人と付き合って報告を書くことが仕事ではあったが、実際、人手は足りなかったので何でもやることになった。外務省の仕事については、守秘義務というものがあるので詳しくは書けないが、仕事は研究というよりは、遊撃隊のスタッフというようなものであったとだけ書いておこう。そして、私はそれでよかった。日本国外務省の名刺をもって、普通なら会えないたくさんの人と会って、目的のはっきりしたもの、しないものを含めて、当時の現地の情報をひたすら集める。それは、私の好奇心をとことん満たす仕事だった。

コミュニケーション能力は本当に向上する
 ここで書いておきたいのは、人脈を広げるという技についてであるが、これは私たちの仲間にはかなり高度な技になる。ただし、人に信頼される基本は一つだけである。誠実であること、だ。この時期の私は、すでに人間が大好きで、努力なんかしなくても、あらゆる人に興味を持てる体質になっていた。時間のある限り動き回って人と時間を過ごす。相手に興味を持って、相手のしたい話を聞く。欲しい情報の何倍ものライフヒストリーを聞きとることになるが、それは望むところだった。後は、誠実であることだけである。馬鹿にされてもいいから、誠実であり続ければ、私を利用しようとしている人も、最後には恥ずかしくなって私のために働いてくれる。一生懸命働いていれば、それは人に伝わるもので、色んな人が助けてくれるようになる。これは、相手が日本人でも中国人でも同じことである。中国人に舐められるのは少し恐ろしい気がするだろうが、馬鹿だと思って付け込んできた人も、結局私の不利益になるようなことを続けたりはしない。それどころか、最後には私の役に立とうとしてくれる。それでもごく少数、本当に誠意を尽くす値打ちのない相手を見つけたら、その時、切ってしまえばいいのだ。最初は、用心などしないで勇気を持って自分から心を開こう。
 最後の休憩。私たちは中国人スタッフに支えられて仕事をしていたのであるが、人によってはこれを「使う」と表現する人もいた。ある人が私について言った表現が面白いと思うので、書いてしまおう。「中国人を使うには2つしか方法がないでしょう。一つは鞭でがっちり絞めておいて、相手の限界を見極めて緩める。もう一つは十分飴を与えて自由にさせておいて、相手が出過ぎてきたらバシッと叩く。飴と鞭です。ただ、岩堀さんはそのどちらでもなく中国人を動かしていますね。まるで、真綿で首を絞めてとことん働かせる蛇女ですね」。酷い話だが、人に助けてもらうのに、飴でも鞭でもないのは当たり前である。信頼とお願い、そして相手の恐れているものがあるとすれば、それは私の失望である。
 
研究より交渉
さて、ここで私の人生で決定的な変化がもう一つあったことを述べておきたい。論文を書きたいと言う欲望がなくなったのだ。へえ、そんな欲望があったのかと驚かれるかもしれないが、研究などというものに足を突っ込んだ人間は、とにかく論文が書きたくて仕方ないのである。飲んで食べて情報を集めながら、頭の中では文章に落とし込む情報を整理している。そんな第二の本能が身に着いてしまう。これは、マスコミの仕事をしている人や、小説家にもあるのではないかと思うが、それが、無くなったのである。知っているから、事実だからといって、何でも公に伝えなくてもいいという思いが強くなった。必ずしも、事実が役に立ったり、人を幸せにしないという考え方に方向転換したのである。
これは、原発だの、戦争責任だのには応用できない、やや危険なスタンスである。とことん透明であるべき領域というものも、世の中にはある。それでも、最もましな選択をするにあたって、何もかも赤裸々に語ってしまうことがいいわけではないという考えに至った。たとえば、夫婦や家族などの人間関係で、何でも思っていることを口にしないことは、すこし考えれば分かるだろう。私は夫との人間関係を、日中外交の戦略的互恵関係くらいに考えている。男と女なんて、日本と中国よりも遠く異なる存在だ。あるいは、日本と中国なんて、その程度にしか違わないものなのだともいえる。それでも、本当の信頼関係というのは、成立可能だという実感がある。夫婦は、人生を共に闘って生きてゆく同盟国のようなものだ。別な例をあげよう、私は原発全廃を心の中で望んでいるかもしれない。ただ、資源がないこの国が、当面他国から資源を買って暮らさなければならない時には、そんなことを対外的に大きな声では言わないかもしれない。「原発は必要だけれど、活断層に少しでもかかっているところでは、絶対に稼働させられませんよね。その検証には時間がかかります」などというのである。全然、率直でも誠実でもないではないか、役所に2年いて学んだのはそういうことか。という、怒りの声もあるだろう。だから、私たちの仲間にはすこし難しい話なのである。それでも、無理は承知で言っておきたい。何でも本当のことを言えばいいというものではない。相手に分かる、受け入れられる話をすること、そして、本当に辿りつきたい自分自身の着地点を見失わないこと。これは、研究ではなく、交渉の世界である。人生は、誠実な交渉の積み重ねだ。

・人に興味をもとう、愛情をもとう、心を開く勇気をもとう
・人には誠意を尽くそう
・人に時間を使おう
・何でも本当のことだからといって口にしない
・相手に伝わるように話そう