イギリス留学
英語は出来ないまま大学院入学
やっと中国から帰ったかと思えば、今度はイギリスかアメリカの大学院に行きたいなどと、全く無謀なことを言いだすのは、さすがの私にも心苦しかった。しかも、今度は自己資金が底をついていたので、本当に「お願い」の世界だった。あのとき母が何を考えて許してくれたのか、今となっては母も覚えていないだろう。日本に帰った私は中国語通訳の仕事で荒稼ぎしつつ、さっそくイギリス留学の準備を始めた。アメリカではなくイギリスにしたのは、中国から帰った私がズケズケと物を言うようになったと母が感じており、この上アメリカに行かれたのでは、更にこの傾向に拍車がかかると恐れたからである。確かに、イギリス人には京都人の嫌味もイケズも通じたのであるが、これは今ここで語れる話ではない。
1997年1月、私はロンドンのヒースロー空港へ降り立った。降下する飛行機の窓からロンドンを眺めながら、私は苦しくて泣いていた。自分が本当に中国から離れてしまったという思いがこみ上げ、「こんなに愛していたなんて!」と、恋人と別れたことを後悔するように泣いていたのである。しかし、全然泣いている場合ではなかった。またしても、言葉が通じなかったのである。
語学学校へ入った私は、またまた初級中クラスに入れられてしまった。8カ月後には大学院へ入るための準備コースへ入らねばならず、来年の9月には大学院に入学せねばならないのに、「私の名前は由美子です」「このセーターの色は青です」というレベルである。必死になろうにも、もう方向性も分からない。焦りですっかり情緒不安定になった。とにかく、日本で調べてきた大学に、何通もカリキュラムと入学願書の資料を取り寄せる手紙を書きまくった。日本への帰国中にワープロからパソコンに乗り換えていたので、この頃の手紙はパソコンで書いていた。ワープロ時代に運指の指示もあるタイピングゲームでタイピングの練習をしていた(と言うより遊んでいた)のだが、私はイギリス留学時代に完全にパソコンに慣れて、キーボードを見なくても10本指で打てるようになった。
自分の英語にすっかり自信を失って、というか現実に直面して、これからどうすればいいのか途方に暮れていた私は、大学からちゃんと資料が送られてきただけでも嬉しかった。が、今度は送られてきた資料が読めない。読めない資料がどんどん机の上につみあがった。本当に精神衛生上良くない状況に、あっという間に立ち至ってしまった。困った時の手段はすでに体の中に出来上がっていた。「人に助けてもらう」である。中国時代と違って経済的に自由であったわけではないが、他に方法もない。私は人生で何人目になるのか、もう分からない家庭教師を頼んだ。
家庭教師は語学学校の先生で、同性で教養があり、シニカルだが知的で面白い人だった。今度の家庭教師との作業の目的は、大学院の準備コースに潜り込む事である。語学学校の先生たちは、私が大学院へ入るなどと言うのは全く非現実的なことだとして相手にしてくれなかったが、それは当り前のことであろう。その学校にはたくさん私より英語のできる生徒がいたが、誰も大学院へ行くというような目的は持っていなかったから。それでも、レッスン料を払って個人的に会い始めると、家庭教師に選んだ先生の態度は変わった。私には言語能力という武器があるので、つたない英語でもこれまでの人生を語り、なぜ勉強したいのか、何を勉強したいのかを語ることができた。先生は私に興味を持ち、それならどうすべきかという事を一緒に考え、大学に関する情報を集めたり、資料を読む手助けをしてくれ、大学とのやり取りの手紙を添削してくれたのである。私は、7月にはロンドン大学の東洋アフリカ研究学院(SOAS)の外国人の為の夏季コースに潜り込み、9月には外国人学生の為の大学院進学準備ディプロマコースに入学できたのである。
結果はその通りであったが、ロンドンの語学学校での半年は、人生の中でも最も効率の悪かった時期として記憶されるだろう。私は2つのレベルのケンブリッジ英検にことごとく落ちてしまった。自分の勉強法を見つけられず、状態も酷く悪くなっていた。そういう時の対処法として「逃げだす」と言うことを言っておきたい。全然英語の勉強に成果のでていない中、私は6月にはトルコの片田舎へ一人旅をした。とても安い旅行を代理店で予約して、現地のダイビングショップに電話で予約を入れ、10日間、1日三本ずつボートダイビングをしていたのである。私はトルコでモテまくった。嘘ではない。東洋人の女性の一人旅など目立ってしようがない小さな町で、毎日誰かにご飯をごちそうになった。トルコの海は、沖縄などに比べれば退屈な海であったが、ボートにゆられ、風に吹かれ、海に洗われて、私は復活した。勉強するには先ずコンディションを整えなければならない。戦える状態を作るのが、目標達成のための条件だと述べておきたい。
大学院生活
夏季コースやディプロマコースでの経験は、大変充実したものであった。論文を書くための資料の集め方や、プロジェクトの構成のとり方、アカデミックライティングは、先にも述べたように事細かなルールを教えるものであり、これはよく分かった。アカデミックな資料を大量に読むためのスキミング(飛ばし読み)も、文章の初めと終わりに中身の要約が書いてあることを知れば、だんだん読めるようになってくる。というか、じっくり読むスピードのなかった私は、突然膨大な量のリーディングにさらされて、知らず知らずにスキミングの技を身につけ、ここはという部分だけを見つけ出して熟読できるようになっていったのである。
この時期、カリキュラムの内容はアカデミックライティング、開発学、国際ビジネス等であったが、授業の内容や読まされる資料はとても面白かった。だから、退屈と言うことはなくてストレスは低かった。ただ、またしてもノートがとれない、単語が書けないので試験が心配という問題はあった。授業はすべてテープにとったが、これはあまり役に立たなかった。テープを聞く時間がなかったからである。ノートは素晴らしく優秀な日本人学生がいたので、本当に助けられた。SOASでのディプロマとマスターの2年間お世話になった彼は、今は世界銀行で活躍している。本当に感謝したい。単語の方は、レポートをパソコンで書くことを通して、なんとか乗り切った。大量の文章をレポートで書くうちに、必要な英単語をキーボードの位置で思いだせるようになり、試験中、分からない単語は指の動きをイメージして書くことが出来たのである。他方、この頃にまだ深刻に残っていた学習障害の影響を紹介すると、this、 thus、 then、 they、 them 、などは、最後まで判読に苦しみ、打ち間違い、書き間違いも残っていた。これらは、文脈と発音で確定するしかない。イギリスに3年近く住んだ後になっても、このようなレベルの問題から解放されたことはない。
さて、簡単に「大量のレポートを書くうちに」と書いたが、これはもちろん大変な事だった。私は学生寮のルームメイトで、あらゆる意味で不良学生であり、彼女自身、自分の知性に気付いていなかったイギリス人の女の子を、文章添削のアルバイトに雇った。彼女はエマといい、フランスに2年間住んでいた経験があり、外国人の英語の間違いを聞き流さず訂正してくれ、とても言葉に敏感だった。エマにも2年間お世話になったのだが、彼女は私との交友を通して勉強するという事を知り、レポートの書き方を理解したと語った。エマは私のレポートを読んで前置詞や単語の選び方を直してくれていたのだが、いかんせん内容が専門的になっていたので、議論の内容を理解しないと正しく文章が直せないという事があった。私は自分の主張を口頭で説明し、彼女に対して説得力のない点は書き直し、おかげでネイティブと言うか欧米的な思考でもって、説得力のあるレポートを書くことが出来た。評価する人の文化的思考パターンに沿って書く。これは、中国での作文コンクールの経験から得た指針だった。私のレポートはどれもありがたい高評価だった。
レポートを書く上で、私にはとても困難だった作業が一つある。それは、データ入力だった。経済学のレポートを書くのに、エクセルで表やグラフを作らなければならないのだが、統計年鑑などから数字を拾って、一々打ち込む必要があった。この単純作業は右の物を左に写せない私には困難を極めた。実のところ日本での大学時代にも、同じような経験があった。それは古文などの原文から、特定の言葉や用法をすべて拾い出して分析するというような場合であった。これらについて特別な抜け道はなかった。苦手な単純作業を、とにもかくにもやるのだが、もちろん入力ミスは多発した。ただ、数字は入れ間違うとグラフに現れるので、「これは意味があるのか、入力ミスなのか」と考える事で訂正が出来た。今ではデータ化した資料をダウンロードすることが出来るので、このような苦痛は大幅に減っていると思われるが、とにかくやる、そして後から訂正する、という姿勢をお勧めしておきたい。先にも述べたが、作業から数日経てば、自分の間違いを自分で見直すことが出来るのである。
修士号をもらうために
この時期、コースの責任者と面談する事があった。彼は私を独創志向すぎると言った。「由美、オリジナルなものを書こうとしなくていい。資料を探し、理解し、人々の議論を読み比べて、自分で最も常識的だと思う結論を導き出すんだ。普通に考えればいいんだ。それを文章に構成すれば、必ず君自身がそこに表現されて、他の誰とも違うオリジナルな仕事になる」。なんだ、同志社大学の国文と同じじゃないか。でも、本当にそれでいいのだと思えた。彼はもう一つ言った。「君には知性があるが訓練が足りない」。何ということか、まだ足りないのかと驚いたが、自分ではストレスなく素直に指示を実行しているつもりでも、やっぱりわが道を行っていたのだ。また、当時の私もやはり遊び人に見えていたということがある。この文章を読んでいると、私が勉強ばかりしていたかのようだが、それは勉強に話題を限定しているからであり、精神状態が安定せず、自分の心の面倒をみるために、たくさんの楽しい時間を必要としていた私が、そんなに勉強だけできるはずはない。その面談以降、私はイギリスの学術訓練のルールをさらに意識し、勉強に専念しようとした。結果、体調不良に見舞われ、診察を受けたあげく、ディプレッション、抑うつ状態と診断されてしまった。コース責任者の彼は2度目の面談で、とてもショックを受けていると言った。最も鬱になりそうにない学生が鬱になるというのは本当だと。「キース、私の脳は一度壊れたキズもので、鬱なんて全く驚くべき事じゃなかったんだよ。」とはいえ、私はそんな診断信じていなかった。なぜかと言うと、思春期に本当に酷い状態を経験していた私は、心が風をひいたくらいにしか感じなかったし、イギリス人は大げさだと思ったのだ。
留学2年目の秋、私が大学院に入学できたのは、英語のレベルテストIELTSで要求点をクリアでき、ディプロマコースでの成績と先生の推薦状が合格点にあり、研究計画書と面接をクリアできたからである。私は3つの大学の4つの学部から入学許可をもらった。その中で、自分のしたい事を勉強できる場所として、SOASの開発学修士を選んだ。それは、とても過酷で楽しい一年間だった。開発途上国の経済や社会の発達をあらゆる角度から論じる授業と、中国経済史の授業を核に、中国の「改革開放以降の外資導入を梃子にした工業化」についての論文を書いた。その間、先に書いた優秀なノートと、エマと、もう一人当時の恋人の助けがあったことを書いておきたい。彼は大変優秀な日本人学生で、西洋の古典や現在論戦中のトピックスが授業の中で出てくると、概要や論点を日本語で簡単に説明してくれた。あの時期、議論の前提とされるたくさんの知識を、全部自力でカバーしていたとしたら、とても1年でマスターなど取れなかった。イギリスの知識分子として当然に要求される、社会学や哲学や人類学の素養はつけ刃にして、ロンドン大学の大学院を乗り切ったのである。本当に、皆さんのおかげさまで、したいことを勉強させてもらうことができました。
ここでひとつ、役に立つだろうことを書いておきたい。教授の主義主張と真っ向からぶつかりたくなければ、入学前に論文を読んで先生の立場を知っておくことである。完全に当たり前のことであるが、自分が読んで共感できる事を書いている人のところで勉強するのである。普通の大学院生にこんなことを言う必要はないと思うが、発達障害や学習障害を持つ私たちの仲間は、うっかりそういうことを忘れてしまうかも知れない。とにかく入れる大学や大学院に入ってしまったら、後で苦労する事になる。そして、書くレポートの評価者が「社会主義経済学者会議」のメンバーであると知っているなら、「歴史的物質主義」などというそこら中の文献にあふれているタームを使わず、「唯物史観」という正しいタームを選んでレポートを書けば、それだけでずいぶん印象が変わる。正直、SOASでの私はマルクス関係で点数を稼いだと思うのだが、日本にはマルクスに関するよい紹介本がたくさんあって、私はそれを取り寄せて時間を節約した。じゃあ、いまマルクスについて何か語れるかと言われれば、英単語と一緒に忘れてしまった。その時期、私は知的ゲームを戦っていたのであり、その時間を楽しんでいただけだ。
1999年10月、私は開発学修士号をもって日本に帰国した。振り返ればミッション・インポッシブルの世界であった。
・出来ないことは、勉強に限らず人に助けてもらう
・勉強できない時は逃げてコンディションを立て直す
・苦手だと分かっていることは最初から助けてくれる人を探す
・全部自分でできなくてもいいと決める
・人に意見を聞いて、素直に受け入れる(特に異文化環境で活動する場合は)
・パソコンは、時間をかけても見ないで打てるようにする価値がある
英語は出来ないまま大学院入学
やっと中国から帰ったかと思えば、今度はイギリスかアメリカの大学院に行きたいなどと、全く無謀なことを言いだすのは、さすがの私にも心苦しかった。しかも、今度は自己資金が底をついていたので、本当に「お願い」の世界だった。あのとき母が何を考えて許してくれたのか、今となっては母も覚えていないだろう。日本に帰った私は中国語通訳の仕事で荒稼ぎしつつ、さっそくイギリス留学の準備を始めた。アメリカではなくイギリスにしたのは、中国から帰った私がズケズケと物を言うようになったと母が感じており、この上アメリカに行かれたのでは、更にこの傾向に拍車がかかると恐れたからである。確かに、イギリス人には京都人の嫌味もイケズも通じたのであるが、これは今ここで語れる話ではない。
1997年1月、私はロンドンのヒースロー空港へ降り立った。降下する飛行機の窓からロンドンを眺めながら、私は苦しくて泣いていた。自分が本当に中国から離れてしまったという思いがこみ上げ、「こんなに愛していたなんて!」と、恋人と別れたことを後悔するように泣いていたのである。しかし、全然泣いている場合ではなかった。またしても、言葉が通じなかったのである。
語学学校へ入った私は、またまた初級中クラスに入れられてしまった。8カ月後には大学院へ入るための準備コースへ入らねばならず、来年の9月には大学院に入学せねばならないのに、「私の名前は由美子です」「このセーターの色は青です」というレベルである。必死になろうにも、もう方向性も分からない。焦りですっかり情緒不安定になった。とにかく、日本で調べてきた大学に、何通もカリキュラムと入学願書の資料を取り寄せる手紙を書きまくった。日本への帰国中にワープロからパソコンに乗り換えていたので、この頃の手紙はパソコンで書いていた。ワープロ時代に運指の指示もあるタイピングゲームでタイピングの練習をしていた(と言うより遊んでいた)のだが、私はイギリス留学時代に完全にパソコンに慣れて、キーボードを見なくても10本指で打てるようになった。
自分の英語にすっかり自信を失って、というか現実に直面して、これからどうすればいいのか途方に暮れていた私は、大学からちゃんと資料が送られてきただけでも嬉しかった。が、今度は送られてきた資料が読めない。読めない資料がどんどん机の上につみあがった。本当に精神衛生上良くない状況に、あっという間に立ち至ってしまった。困った時の手段はすでに体の中に出来上がっていた。「人に助けてもらう」である。中国時代と違って経済的に自由であったわけではないが、他に方法もない。私は人生で何人目になるのか、もう分からない家庭教師を頼んだ。
家庭教師は語学学校の先生で、同性で教養があり、シニカルだが知的で面白い人だった。今度の家庭教師との作業の目的は、大学院の準備コースに潜り込む事である。語学学校の先生たちは、私が大学院へ入るなどと言うのは全く非現実的なことだとして相手にしてくれなかったが、それは当り前のことであろう。その学校にはたくさん私より英語のできる生徒がいたが、誰も大学院へ行くというような目的は持っていなかったから。それでも、レッスン料を払って個人的に会い始めると、家庭教師に選んだ先生の態度は変わった。私には言語能力という武器があるので、つたない英語でもこれまでの人生を語り、なぜ勉強したいのか、何を勉強したいのかを語ることができた。先生は私に興味を持ち、それならどうすべきかという事を一緒に考え、大学に関する情報を集めたり、資料を読む手助けをしてくれ、大学とのやり取りの手紙を添削してくれたのである。私は、7月にはロンドン大学の東洋アフリカ研究学院(SOAS)の外国人の為の夏季コースに潜り込み、9月には外国人学生の為の大学院進学準備ディプロマコースに入学できたのである。
結果はその通りであったが、ロンドンの語学学校での半年は、人生の中でも最も効率の悪かった時期として記憶されるだろう。私は2つのレベルのケンブリッジ英検にことごとく落ちてしまった。自分の勉強法を見つけられず、状態も酷く悪くなっていた。そういう時の対処法として「逃げだす」と言うことを言っておきたい。全然英語の勉強に成果のでていない中、私は6月にはトルコの片田舎へ一人旅をした。とても安い旅行を代理店で予約して、現地のダイビングショップに電話で予約を入れ、10日間、1日三本ずつボートダイビングをしていたのである。私はトルコでモテまくった。嘘ではない。東洋人の女性の一人旅など目立ってしようがない小さな町で、毎日誰かにご飯をごちそうになった。トルコの海は、沖縄などに比べれば退屈な海であったが、ボートにゆられ、風に吹かれ、海に洗われて、私は復活した。勉強するには先ずコンディションを整えなければならない。戦える状態を作るのが、目標達成のための条件だと述べておきたい。
大学院生活
夏季コースやディプロマコースでの経験は、大変充実したものであった。論文を書くための資料の集め方や、プロジェクトの構成のとり方、アカデミックライティングは、先にも述べたように事細かなルールを教えるものであり、これはよく分かった。アカデミックな資料を大量に読むためのスキミング(飛ばし読み)も、文章の初めと終わりに中身の要約が書いてあることを知れば、だんだん読めるようになってくる。というか、じっくり読むスピードのなかった私は、突然膨大な量のリーディングにさらされて、知らず知らずにスキミングの技を身につけ、ここはという部分だけを見つけ出して熟読できるようになっていったのである。
この時期、カリキュラムの内容はアカデミックライティング、開発学、国際ビジネス等であったが、授業の内容や読まされる資料はとても面白かった。だから、退屈と言うことはなくてストレスは低かった。ただ、またしてもノートがとれない、単語が書けないので試験が心配という問題はあった。授業はすべてテープにとったが、これはあまり役に立たなかった。テープを聞く時間がなかったからである。ノートは素晴らしく優秀な日本人学生がいたので、本当に助けられた。SOASでのディプロマとマスターの2年間お世話になった彼は、今は世界銀行で活躍している。本当に感謝したい。単語の方は、レポートをパソコンで書くことを通して、なんとか乗り切った。大量の文章をレポートで書くうちに、必要な英単語をキーボードの位置で思いだせるようになり、試験中、分からない単語は指の動きをイメージして書くことが出来たのである。他方、この頃にまだ深刻に残っていた学習障害の影響を紹介すると、this、 thus、 then、 they、 them 、などは、最後まで判読に苦しみ、打ち間違い、書き間違いも残っていた。これらは、文脈と発音で確定するしかない。イギリスに3年近く住んだ後になっても、このようなレベルの問題から解放されたことはない。
さて、簡単に「大量のレポートを書くうちに」と書いたが、これはもちろん大変な事だった。私は学生寮のルームメイトで、あらゆる意味で不良学生であり、彼女自身、自分の知性に気付いていなかったイギリス人の女の子を、文章添削のアルバイトに雇った。彼女はエマといい、フランスに2年間住んでいた経験があり、外国人の英語の間違いを聞き流さず訂正してくれ、とても言葉に敏感だった。エマにも2年間お世話になったのだが、彼女は私との交友を通して勉強するという事を知り、レポートの書き方を理解したと語った。エマは私のレポートを読んで前置詞や単語の選び方を直してくれていたのだが、いかんせん内容が専門的になっていたので、議論の内容を理解しないと正しく文章が直せないという事があった。私は自分の主張を口頭で説明し、彼女に対して説得力のない点は書き直し、おかげでネイティブと言うか欧米的な思考でもって、説得力のあるレポートを書くことが出来た。評価する人の文化的思考パターンに沿って書く。これは、中国での作文コンクールの経験から得た指針だった。私のレポートはどれもありがたい高評価だった。
レポートを書く上で、私にはとても困難だった作業が一つある。それは、データ入力だった。経済学のレポートを書くのに、エクセルで表やグラフを作らなければならないのだが、統計年鑑などから数字を拾って、一々打ち込む必要があった。この単純作業は右の物を左に写せない私には困難を極めた。実のところ日本での大学時代にも、同じような経験があった。それは古文などの原文から、特定の言葉や用法をすべて拾い出して分析するというような場合であった。これらについて特別な抜け道はなかった。苦手な単純作業を、とにもかくにもやるのだが、もちろん入力ミスは多発した。ただ、数字は入れ間違うとグラフに現れるので、「これは意味があるのか、入力ミスなのか」と考える事で訂正が出来た。今ではデータ化した資料をダウンロードすることが出来るので、このような苦痛は大幅に減っていると思われるが、とにかくやる、そして後から訂正する、という姿勢をお勧めしておきたい。先にも述べたが、作業から数日経てば、自分の間違いを自分で見直すことが出来るのである。
修士号をもらうために
この時期、コースの責任者と面談する事があった。彼は私を独創志向すぎると言った。「由美、オリジナルなものを書こうとしなくていい。資料を探し、理解し、人々の議論を読み比べて、自分で最も常識的だと思う結論を導き出すんだ。普通に考えればいいんだ。それを文章に構成すれば、必ず君自身がそこに表現されて、他の誰とも違うオリジナルな仕事になる」。なんだ、同志社大学の国文と同じじゃないか。でも、本当にそれでいいのだと思えた。彼はもう一つ言った。「君には知性があるが訓練が足りない」。何ということか、まだ足りないのかと驚いたが、自分ではストレスなく素直に指示を実行しているつもりでも、やっぱりわが道を行っていたのだ。また、当時の私もやはり遊び人に見えていたということがある。この文章を読んでいると、私が勉強ばかりしていたかのようだが、それは勉強に話題を限定しているからであり、精神状態が安定せず、自分の心の面倒をみるために、たくさんの楽しい時間を必要としていた私が、そんなに勉強だけできるはずはない。その面談以降、私はイギリスの学術訓練のルールをさらに意識し、勉強に専念しようとした。結果、体調不良に見舞われ、診察を受けたあげく、ディプレッション、抑うつ状態と診断されてしまった。コース責任者の彼は2度目の面談で、とてもショックを受けていると言った。最も鬱になりそうにない学生が鬱になるというのは本当だと。「キース、私の脳は一度壊れたキズもので、鬱なんて全く驚くべき事じゃなかったんだよ。」とはいえ、私はそんな診断信じていなかった。なぜかと言うと、思春期に本当に酷い状態を経験していた私は、心が風をひいたくらいにしか感じなかったし、イギリス人は大げさだと思ったのだ。
留学2年目の秋、私が大学院に入学できたのは、英語のレベルテストIELTSで要求点をクリアでき、ディプロマコースでの成績と先生の推薦状が合格点にあり、研究計画書と面接をクリアできたからである。私は3つの大学の4つの学部から入学許可をもらった。その中で、自分のしたい事を勉強できる場所として、SOASの開発学修士を選んだ。それは、とても過酷で楽しい一年間だった。開発途上国の経済や社会の発達をあらゆる角度から論じる授業と、中国経済史の授業を核に、中国の「改革開放以降の外資導入を梃子にした工業化」についての論文を書いた。その間、先に書いた優秀なノートと、エマと、もう一人当時の恋人の助けがあったことを書いておきたい。彼は大変優秀な日本人学生で、西洋の古典や現在論戦中のトピックスが授業の中で出てくると、概要や論点を日本語で簡単に説明してくれた。あの時期、議論の前提とされるたくさんの知識を、全部自力でカバーしていたとしたら、とても1年でマスターなど取れなかった。イギリスの知識分子として当然に要求される、社会学や哲学や人類学の素養はつけ刃にして、ロンドン大学の大学院を乗り切ったのである。本当に、皆さんのおかげさまで、したいことを勉強させてもらうことができました。
ここでひとつ、役に立つだろうことを書いておきたい。教授の主義主張と真っ向からぶつかりたくなければ、入学前に論文を読んで先生の立場を知っておくことである。完全に当たり前のことであるが、自分が読んで共感できる事を書いている人のところで勉強するのである。普通の大学院生にこんなことを言う必要はないと思うが、発達障害や学習障害を持つ私たちの仲間は、うっかりそういうことを忘れてしまうかも知れない。とにかく入れる大学や大学院に入ってしまったら、後で苦労する事になる。そして、書くレポートの評価者が「社会主義経済学者会議」のメンバーであると知っているなら、「歴史的物質主義」などというそこら中の文献にあふれているタームを使わず、「唯物史観」という正しいタームを選んでレポートを書けば、それだけでずいぶん印象が変わる。正直、SOASでの私はマルクス関係で点数を稼いだと思うのだが、日本にはマルクスに関するよい紹介本がたくさんあって、私はそれを取り寄せて時間を節約した。じゃあ、いまマルクスについて何か語れるかと言われれば、英単語と一緒に忘れてしまった。その時期、私は知的ゲームを戦っていたのであり、その時間を楽しんでいただけだ。
1999年10月、私は開発学修士号をもって日本に帰国した。振り返ればミッション・インポッシブルの世界であった。
・出来ないことは、勉強に限らず人に助けてもらう
・勉強できない時は逃げてコンディションを立て直す
・苦手だと分かっていることは最初から助けてくれる人を探す
・全部自分でできなくてもいいと決める
・人に意見を聞いて、素直に受け入れる(特に異文化環境で活動する場合は)
・パソコンは、時間をかけても見ないで打てるようにする価値がある