中国で学んだこと
さて、華僑学校での1年間で、ある程度の日常会話に自信をつけた私は、2年目は北京の大学へ転校するという道を選んだ。これには理由があって、当初、華僑というものが面白くて仕方なかった私だが、中国人と付き合ううちに、所謂、大陸の中国人が面白くなってしまった。留学前の予想と違い、中国人と言うのは恐ろしく自由で個性的でパワフルな人々であった。しかも出身地や社会階層、育った時代や家庭環境、職業などによって、本当に多様な考え方や常識をもっている。中国人はよく「中国人は」と中国人を代表したような発言をするが、誰にも中国人の事など分からないだろうと思われた。「われわれ老百姓は」と庶民を代表するようなことも言うが、こちらもまったく当てにならない。私はすっかり中国と中国人に魅了されてしまった。ただ、初めはいろんな中国人と片言の中国語で付き合うだけで面白かったのだが、1年間アモイの田舎で暮らすうちに、人々の文化程度の低さにうんざりしてきた。傲慢な言い方だが、「何々先生の奥さんは・・・」「何々さんは○○出身でどうこうだ・・・」などという世間話に付き合いきれなくなったのである。これだけ大きな国の、これがすべてであるはずがない。首都に行きたい。もっと文化程度の高い人たちと付き合いたい。と、思うようになったのである。
私は家庭教師をしてもらっていた先生の紹介で、北京語言学院、今の北京語言文化大学の3年生に編入した。そして、またしても衝撃を受ける。北京へ行くと、福建で習った普通語は全く通じないし、相手の言葉も聞き取れなかったのである。北京での1年間も、それはそれで小説にでもなりそうなドラマに満ちているのだが、ここでは、学習についての体験だけを語ろう。総合的な中国語クラスのほかに、会話、文法、作文、古典、経済、新聞読解などのクラスがあった。私は早速、予習の為に家庭教師を探した。もう体を壊す気のなかった私は、3人の家庭教師を探し、すべての予習を家庭教師とやることにした。そして、古典だけは教科書全部書き写し法を採用し、左側に古文、右側に現代文を書いて、完ぺきなノートを先生と作ってから授業に臨んだ。北京人の発音と語彙、会話のスピードは全くアモイ時代と違っており、私はなかなかに苦戦したが、さすがに大学の授業内容は面白く、ストレスは低かった。辞書も、中中辞書である現代漢語辞典の他に、古語辞典、成語辞典、熟語辞典、逆引き辞典など、たくさん使うようになっていた。この時期は人生で最高に要領よく勉強していたと思うが、その後も「技」として使っていること、忘れられないエピソードだけを紹介したい。
先ず、私の四声と発音はなかなか改善しなかったが、あることがきっかけで、通じる程度のものに矯正されたと思う。ある日、地方出身の先生のアクセントを真似して同級生たちを笑わせていた時、「由美、今は四声狂ってないよ」と言われたのである。ハッとした。それからは、話し方が上品で美しく、教養があって家庭教育のしっかりしたある女の先生をイメージし、彼女の物真似をしているつもりで話す練習をしたのである。これは、外国語を話すときに普遍的に使える方法だと思う。恋人が出来たりすると女性が男言葉になったり、その逆もあると思うが、外国人はなるべくなら教養のある同性が話す固めの言葉を模倣するのがよいと思う。そうはいいながら、今の自分の中国語が、教養を感じさせるものでなくなってしまったことは、告白しておかなければならない。
私が大学時代にレポートの書き方が分からなくて苦労したことは先に述べたが、その後、イギリス留学中も使えた文章の書き方というものを、私は中国人に教えてもらった。日本でも起承転結という言葉は知っていたが、中国の作文の時間では、これが厳格に求められたのである。しかも、設計図のような、何をどれだけ書くという計画書を先に提出し、認められてから本文を書くので、初めから書く内容と文章の全体像が見えていた。これは驚きであった。ちなみにイギリスの大学ではさらに厳格で、言葉と言葉の間は2マス空ける。文章は2行ずつ開けて書く。関係代名詞は一つの文に1つ以内。などと明確に指示された。しかし、決められてみれば作文は恐ろしく簡単であった。初めに何を書くかを書き、中身を2部構成にし、最後に何を書いたか書く。これだけである。この型に落としこんでいく訓練をすれば、たいていの報告などはまとめられるようになる。
少し休憩。ちなみに私は大学の作文コンクールで1位になったことがある。それは、小説を書いてのことだ。中国人には刺激的と思われる、私の少女時代の友人とのエピソードを脚色したものだったが、私はこれを近所の人たちや(私は学生寮を出て、潜りで一般人民のアパートに住んでいた)、家庭教師の先生たちに読んでもらった。誤字脱字を指摘されたのはもちろんだが、誰もが、はっきりしたハッピーエンドと言えない結末に不満を述べた。中国人が受け入れるには精神が健全でないというのである。私の表現者魂は葛藤したが、結局、蛇足ともいうべき後日談を書きくわえた。結果、1位を獲れたのである。フェアな勝負じゃなかったが、今となっては時効成立だ。この経験は、後年、イギリスでレポートを書くときに、決定的な指針となる。
中国語を学んだことで、その後の人生の財産となったことがある。それは、日本語の漢字がかなり書けるようになったことである。簡体字は日本の漢字に比べて簡単で書きやすく、私にとっても覚えやすかった。中国語の漢字は、一文字に1音節の発音が1種類しかない(わずかな例外はあるが)。そして、簡略化するときに一定の法則がある。私は今でも「学習障害」と書けなかったりする。そのような場合、先ず中国語で「学習障害」の発音を思い浮かべ、次に簡体字を思い浮かべ、そして日本語の漢字を書いている。回りくどいようだが、書けないよりましである。日本語の漢字をそのまま覚えるより、覚えやすい、いや、この方が思いだしやすいのだ。
中国を離れた理由
最後に、私が北京語言学院を卒業せずに帰国する、という決断に至ったエピソードを2つ。3人の家庭教師の一人は定年間近の立派な知識分子女性で、新聞を一緒に読んで時事問題を語り合ったり、大躍進や文革時代の経験談を聞くということをやっていた。その先生には特別可愛がってもらったのだが、ある時彼女が言った。「あなたの中国語はもう伸びない。あなたには言語力がありすぎて、語学力が付かないのだ。言語力が全くなければ、完全に正しい文章を正しい発音で操らなければ通じないだろう。あなたの場合は、言語力がありすぎて、間違った言葉を選んでも、発音が悪くても、相手はあなたの言いたいことを理解してしまう。だから語学力の伸びに限界がある。商売や仕事がしたいならもう十分だろう。でも、天皇や総理の通訳にはこの先いくら頑張っても絶対になれない。」。とても率直な人だった。私は、またひとつ自分の性質が明確になったと思った。これが、中国語の勉強をここまででいいと納得した話である。
私と同い年の中国人は、大学3年生のときに天安門事件を経験している。生意気盛りで活動的だった友人の多くが、何らかの形で学生運動にかかわり、中でもリーダー的な立場だった者はその後の人生を難しくしていた。彼らと飲むと(お茶だったりビールだったり)、外国に出て勉強したいという話になる。外国人である私も、欧米で何か勉強して中国の発展に尽くさなければ、と熱くなった。また、北京には欧米人の駐在員などが共有する英語情報があり、私はその輪の中に入れないことに不満を感じていた。そんなころ、英語を母語とする企業派遣の日本人留学生に言われた。「欧米の大学院に行きたいなら願書さえ書けば入れるよ。でも、勉強は大変だから女の人は急いだ方がいい。怒るかもしれないけど、体力がどんどん落ちてくるからね」。私は素直に焦った。27歳、あと3年で30歳。この先一生、英語で共有される情報から疎外されたくない。一刻も早くイギリスかアメリカの大学院に入りたいと思った。
こうして、私の中国留学は終わった。中国人たちに「道半ばにして志を折る」という四字成句の連射で引きとめられながらも、決然と北京を後にした。実際には嘔吐が止まらずフラフラの体を友人たちに支えられ、真っ青な顔で飛行機に乗ったのだが、その体調不良の本当の理由は、しばらく前に友達が日本で自殺した事だった。関係ないけど、機会があるごとに言いたい。私たちは生きているだけで本当に苦しい。生きてさえいれば、字なんか書けなくても、勉強なんてできなくても、仕事なんてできなくても、もうどうでもいいじゃないか。
・苦手なこと、出来ないことは最大限、人に頼る
・1対1での口頭による学習に比重を置く
・外国語会話は具体的に誰かをイメージして物真似
・文章はルール通り、型通りに書けばいい
・中国語学習は日本語の漢字を書く助けになる
さて、華僑学校での1年間で、ある程度の日常会話に自信をつけた私は、2年目は北京の大学へ転校するという道を選んだ。これには理由があって、当初、華僑というものが面白くて仕方なかった私だが、中国人と付き合ううちに、所謂、大陸の中国人が面白くなってしまった。留学前の予想と違い、中国人と言うのは恐ろしく自由で個性的でパワフルな人々であった。しかも出身地や社会階層、育った時代や家庭環境、職業などによって、本当に多様な考え方や常識をもっている。中国人はよく「中国人は」と中国人を代表したような発言をするが、誰にも中国人の事など分からないだろうと思われた。「われわれ老百姓は」と庶民を代表するようなことも言うが、こちらもまったく当てにならない。私はすっかり中国と中国人に魅了されてしまった。ただ、初めはいろんな中国人と片言の中国語で付き合うだけで面白かったのだが、1年間アモイの田舎で暮らすうちに、人々の文化程度の低さにうんざりしてきた。傲慢な言い方だが、「何々先生の奥さんは・・・」「何々さんは○○出身でどうこうだ・・・」などという世間話に付き合いきれなくなったのである。これだけ大きな国の、これがすべてであるはずがない。首都に行きたい。もっと文化程度の高い人たちと付き合いたい。と、思うようになったのである。
私は家庭教師をしてもらっていた先生の紹介で、北京語言学院、今の北京語言文化大学の3年生に編入した。そして、またしても衝撃を受ける。北京へ行くと、福建で習った普通語は全く通じないし、相手の言葉も聞き取れなかったのである。北京での1年間も、それはそれで小説にでもなりそうなドラマに満ちているのだが、ここでは、学習についての体験だけを語ろう。総合的な中国語クラスのほかに、会話、文法、作文、古典、経済、新聞読解などのクラスがあった。私は早速、予習の為に家庭教師を探した。もう体を壊す気のなかった私は、3人の家庭教師を探し、すべての予習を家庭教師とやることにした。そして、古典だけは教科書全部書き写し法を採用し、左側に古文、右側に現代文を書いて、完ぺきなノートを先生と作ってから授業に臨んだ。北京人の発音と語彙、会話のスピードは全くアモイ時代と違っており、私はなかなかに苦戦したが、さすがに大学の授業内容は面白く、ストレスは低かった。辞書も、中中辞書である現代漢語辞典の他に、古語辞典、成語辞典、熟語辞典、逆引き辞典など、たくさん使うようになっていた。この時期は人生で最高に要領よく勉強していたと思うが、その後も「技」として使っていること、忘れられないエピソードだけを紹介したい。
先ず、私の四声と発音はなかなか改善しなかったが、あることがきっかけで、通じる程度のものに矯正されたと思う。ある日、地方出身の先生のアクセントを真似して同級生たちを笑わせていた時、「由美、今は四声狂ってないよ」と言われたのである。ハッとした。それからは、話し方が上品で美しく、教養があって家庭教育のしっかりしたある女の先生をイメージし、彼女の物真似をしているつもりで話す練習をしたのである。これは、外国語を話すときに普遍的に使える方法だと思う。恋人が出来たりすると女性が男言葉になったり、その逆もあると思うが、外国人はなるべくなら教養のある同性が話す固めの言葉を模倣するのがよいと思う。そうはいいながら、今の自分の中国語が、教養を感じさせるものでなくなってしまったことは、告白しておかなければならない。
私が大学時代にレポートの書き方が分からなくて苦労したことは先に述べたが、その後、イギリス留学中も使えた文章の書き方というものを、私は中国人に教えてもらった。日本でも起承転結という言葉は知っていたが、中国の作文の時間では、これが厳格に求められたのである。しかも、設計図のような、何をどれだけ書くという計画書を先に提出し、認められてから本文を書くので、初めから書く内容と文章の全体像が見えていた。これは驚きであった。ちなみにイギリスの大学ではさらに厳格で、言葉と言葉の間は2マス空ける。文章は2行ずつ開けて書く。関係代名詞は一つの文に1つ以内。などと明確に指示された。しかし、決められてみれば作文は恐ろしく簡単であった。初めに何を書くかを書き、中身を2部構成にし、最後に何を書いたか書く。これだけである。この型に落としこんでいく訓練をすれば、たいていの報告などはまとめられるようになる。
少し休憩。ちなみに私は大学の作文コンクールで1位になったことがある。それは、小説を書いてのことだ。中国人には刺激的と思われる、私の少女時代の友人とのエピソードを脚色したものだったが、私はこれを近所の人たちや(私は学生寮を出て、潜りで一般人民のアパートに住んでいた)、家庭教師の先生たちに読んでもらった。誤字脱字を指摘されたのはもちろんだが、誰もが、はっきりしたハッピーエンドと言えない結末に不満を述べた。中国人が受け入れるには精神が健全でないというのである。私の表現者魂は葛藤したが、結局、蛇足ともいうべき後日談を書きくわえた。結果、1位を獲れたのである。フェアな勝負じゃなかったが、今となっては時効成立だ。この経験は、後年、イギリスでレポートを書くときに、決定的な指針となる。
中国語を学んだことで、その後の人生の財産となったことがある。それは、日本語の漢字がかなり書けるようになったことである。簡体字は日本の漢字に比べて簡単で書きやすく、私にとっても覚えやすかった。中国語の漢字は、一文字に1音節の発音が1種類しかない(わずかな例外はあるが)。そして、簡略化するときに一定の法則がある。私は今でも「学習障害」と書けなかったりする。そのような場合、先ず中国語で「学習障害」の発音を思い浮かべ、次に簡体字を思い浮かべ、そして日本語の漢字を書いている。回りくどいようだが、書けないよりましである。日本語の漢字をそのまま覚えるより、覚えやすい、いや、この方が思いだしやすいのだ。
中国を離れた理由
最後に、私が北京語言学院を卒業せずに帰国する、という決断に至ったエピソードを2つ。3人の家庭教師の一人は定年間近の立派な知識分子女性で、新聞を一緒に読んで時事問題を語り合ったり、大躍進や文革時代の経験談を聞くということをやっていた。その先生には特別可愛がってもらったのだが、ある時彼女が言った。「あなたの中国語はもう伸びない。あなたには言語力がありすぎて、語学力が付かないのだ。言語力が全くなければ、完全に正しい文章を正しい発音で操らなければ通じないだろう。あなたの場合は、言語力がありすぎて、間違った言葉を選んでも、発音が悪くても、相手はあなたの言いたいことを理解してしまう。だから語学力の伸びに限界がある。商売や仕事がしたいならもう十分だろう。でも、天皇や総理の通訳にはこの先いくら頑張っても絶対になれない。」。とても率直な人だった。私は、またひとつ自分の性質が明確になったと思った。これが、中国語の勉強をここまででいいと納得した話である。
私と同い年の中国人は、大学3年生のときに天安門事件を経験している。生意気盛りで活動的だった友人の多くが、何らかの形で学生運動にかかわり、中でもリーダー的な立場だった者はその後の人生を難しくしていた。彼らと飲むと(お茶だったりビールだったり)、外国に出て勉強したいという話になる。外国人である私も、欧米で何か勉強して中国の発展に尽くさなければ、と熱くなった。また、北京には欧米人の駐在員などが共有する英語情報があり、私はその輪の中に入れないことに不満を感じていた。そんなころ、英語を母語とする企業派遣の日本人留学生に言われた。「欧米の大学院に行きたいなら願書さえ書けば入れるよ。でも、勉強は大変だから女の人は急いだ方がいい。怒るかもしれないけど、体力がどんどん落ちてくるからね」。私は素直に焦った。27歳、あと3年で30歳。この先一生、英語で共有される情報から疎外されたくない。一刻も早くイギリスかアメリカの大学院に入りたいと思った。
こうして、私の中国留学は終わった。中国人たちに「道半ばにして志を折る」という四字成句の連射で引きとめられながらも、決然と北京を後にした。実際には嘔吐が止まらずフラフラの体を友人たちに支えられ、真っ青な顔で飛行機に乗ったのだが、その体調不良の本当の理由は、しばらく前に友達が日本で自殺した事だった。関係ないけど、機会があるごとに言いたい。私たちは生きているだけで本当に苦しい。生きてさえいれば、字なんか書けなくても、勉強なんてできなくても、仕事なんてできなくても、もうどうでもいいじゃないか。
・苦手なこと、出来ないことは最大限、人に頼る
・1対1での口頭による学習に比重を置く
・外国語会話は具体的に誰かをイメージして物真似
・文章はルール通り、型通りに書けばいい
・中国語学習は日本語の漢字を書く助けになる