大学時代
挫折と再出発の決断について
実を言うと、私の志望校は同志社大学ではなく早稲田大学だった。しかも大学へ通って卒業する気はなくて、東京で芝居をするための大学進学だった。だから、準備と言うのはもう1年予備校へ通って、早稲田を受けるためのスケジュールだった。しかし、予定外に同志社へ受かってしまい、当時の家庭の経済状況などの事情と、我が家が両親、叔父叔母、従兄など、たくさん同志社でお世話になっていた同志社ファミリーであったことで、同志社に行くことになってしまったのだ。こうして、3年の長きにわたった私の大学受験プロジェクトは突然終わった。
入学式には出ていない。受かる予定がなかったので、家族でエジプト旅行へ行っていたのだ。そのエジプトで、19歳頃にアイススケートで転倒したことによる、右膝十字靱帯後靱断裂というのが悪化して、私は入学早々松葉づえがないと歩けない状態になってしまった。足の痛みと心の痛みで私は荒れた。これではもう芝居はできない、新聞配達やウエイトレスなどで食べて行くのも無理だろう。それまで、新聞配達やウエイトレス、皿洗いのバイトの経験があった私は、いざとなったら家出して、東京でバイトしながら芝居をするという選択肢を心に秘めていた。しかし、当時の診断は「時間がたち過ぎていてどうしようもない」というもので(今振り返ると嘘じゃないかと思うが)、私は芝居を含む肉体労働はできないのだと絶望した。自立して生きていく自信を失い、最後のアングラ女優にならないのなら、人生で何をすべきか全く分からなくなってしまった。残ったのは同志社大学の学籍ばかり。これは、卒業して大卒にでもならないとしかたがないと思った。
これは大きな挫折であった。私は小学生時代に背負ったトラウマのために、その後も何度も挫折を経験するのだが、挫折した時の考え方は一つだけである。「私は生きてさえいればいい」。芝居をするための人生であって、他に生きる意味などないと思っている自分には、非常に受け入れがたい考え方であるのだが、夢もプライドも何にもなく、とにかく生きる事に至上の意味を設定した。そして、私は楽しい事をたくさん知っていた。挫折した夢の大きさを思えば、全く下らないたくさんの事を、ありったけかき集めて人生を惜しんだ。おいしいものを食べる事、お酒を飲むこと、海に潜ること、バイクで走ること、ディスコで踊ること、カラオケで歌うこと、友達とおしゃべりすること、舞台や映画、芸術作品を観ること、本を読むこと。何もかもどうでもよかったが、一生懸命遊んだ。そして、次の目標を設定した。大学を卒業するなどというのは、全くつまらない目標ではあったが、とりあえずの目標をさだめて、歩き始めたのである。
大学生活について
大学時代の勉強については2つの側面がある。一つは自分が卒業するためにしたことと、家庭教師や塾のバイトでの経験だ。先ずは、自分自身の卒業の為の、悲惨な笑い話を披露しよう。
大学に入って、私はまたしても勉強するということが分からなくなってしまった。先ずは広い大学の校舎に混乱し、入学時にしなければならない科目選択登録などの書類が読めず、あっという間に大学が嫌になってしまった。結局、登録の為の書類は、母と高校生だった妹が読みこんでくれて、なんとか1週間の時間割にハマるように教科選択して書いてくれた。出来上がった時間割通りに教室を探して授業に出始めた私だったが、まあ、先生の話は面白かったり面白くなかったりで、それより何より、学生として何をしなければいけないのか全く分からなかった。
ある一般教養の授業では(それが何かは忘れてしまったが)、一回目の授業で先生の言説に全く共感できず、「そんなことないと思う」という自分の心の声が聞こえたのだが、この心の声に先生の返事が聞こえて吃驚した。「君はもうこの授業に出なくていい!二度と来るな!」というわけで、さっそく1教科落としてしまった。何をすればいいのかわからないまま、うろうろと授業に出ているうちに、前期試験の直前まで行ってしまった。一般教養の英語だけはテキストの英文和訳がはっきり予習として課せられていたので、最初のうちはこれしかやっていなかった。とにかく、辞書を引くだけで私にとっては大変な作業量である。退屈でやっていられないので、下宿に帰ってビールを開け、飲みながら夕食をとり、飲みながら辞書を引き始め、途中からバーボンに変わったお酒をべろべろになるまで飲みながら辞書を引き続け、最後は服のままベッドに倒れ込んで意識を失う。朝起きると体中、部屋中が酒の匂いで、シャワーで昨夜の悪夢を洗い流し、バブル当時に標準とされていた程度の化粧で化けてから登校する。正直、毎日が大変だった。「僕は予習をしてこない学生に単位はあたえない」と言った先生も、まさか私がこんなに苦労しているとは思っていなかっただろう。相変わらずの個性的な身なりでキャンパスをうろつき、歩くことはできないのにバイクのツーリングサークルにも入り、さっそく恋人を見つけて恋愛もしていた私が、そんなに勉強に時間を使っていたとは、誰も気づいていなかったはずである。
前期試験を迎えてみると、一般教養の試験はほとんど論述であって、誤字脱字だらけの文章をゆっくりとしか書けず、字も汚い私には非常に不利と思われた。それでも、ノートは取れないながらも授業には出席していたので、大学近くのコピーノート屋なるもので、誰かの授業ノートをコピーしたものを買い、一読して試験に臨むと、結構良い点を採ることができた。それが、何をどう評価されたものかは、今に至っても謎ではある。授業に出ていた痕跡と、自分なりの意見だろうか。研究するというのがどういうことか知らず、本当に無知だった頃の私は、なんにでも直観的な意見をクリアに持つことができた。これは専門科目にも当てはまっていたように思うが、たくさんの学生の試験やレポートを評価する中で、先生方はちょっと変わった私のこだわり作文を、おおらかに楽しんで甘い点をくれていたのではないかと思う。
さてさて、ノート屋のノートはお金を出すのも腹立たしいほど、質の悪いものが多かった。私は学生から直接ノートを借りることにした。頭がよくて、字がきれいで、出席率のよい学生と、どの授業でも友達になることができた。小学生まで酷いコミュニケーション困難に苦しんでいた私は、大学に入るまでの8年間に、人に好印象を与えて仲良くなる「技」をたくさん身に着けていたのである。しかも、休んでいたからノートを貸してくれと言う虫のいい話ではない。「私は字が汚くて自分のノートが役に立たないから、あなたのノートを貸してくれない」というわけで、ノートは簡単に集まった。
挫折と再出発の決断について
実を言うと、私の志望校は同志社大学ではなく早稲田大学だった。しかも大学へ通って卒業する気はなくて、東京で芝居をするための大学進学だった。だから、準備と言うのはもう1年予備校へ通って、早稲田を受けるためのスケジュールだった。しかし、予定外に同志社へ受かってしまい、当時の家庭の経済状況などの事情と、我が家が両親、叔父叔母、従兄など、たくさん同志社でお世話になっていた同志社ファミリーであったことで、同志社に行くことになってしまったのだ。こうして、3年の長きにわたった私の大学受験プロジェクトは突然終わった。
入学式には出ていない。受かる予定がなかったので、家族でエジプト旅行へ行っていたのだ。そのエジプトで、19歳頃にアイススケートで転倒したことによる、右膝十字靱帯後靱断裂というのが悪化して、私は入学早々松葉づえがないと歩けない状態になってしまった。足の痛みと心の痛みで私は荒れた。これではもう芝居はできない、新聞配達やウエイトレスなどで食べて行くのも無理だろう。それまで、新聞配達やウエイトレス、皿洗いのバイトの経験があった私は、いざとなったら家出して、東京でバイトしながら芝居をするという選択肢を心に秘めていた。しかし、当時の診断は「時間がたち過ぎていてどうしようもない」というもので(今振り返ると嘘じゃないかと思うが)、私は芝居を含む肉体労働はできないのだと絶望した。自立して生きていく自信を失い、最後のアングラ女優にならないのなら、人生で何をすべきか全く分からなくなってしまった。残ったのは同志社大学の学籍ばかり。これは、卒業して大卒にでもならないとしかたがないと思った。
これは大きな挫折であった。私は小学生時代に背負ったトラウマのために、その後も何度も挫折を経験するのだが、挫折した時の考え方は一つだけである。「私は生きてさえいればいい」。芝居をするための人生であって、他に生きる意味などないと思っている自分には、非常に受け入れがたい考え方であるのだが、夢もプライドも何にもなく、とにかく生きる事に至上の意味を設定した。そして、私は楽しい事をたくさん知っていた。挫折した夢の大きさを思えば、全く下らないたくさんの事を、ありったけかき集めて人生を惜しんだ。おいしいものを食べる事、お酒を飲むこと、海に潜ること、バイクで走ること、ディスコで踊ること、カラオケで歌うこと、友達とおしゃべりすること、舞台や映画、芸術作品を観ること、本を読むこと。何もかもどうでもよかったが、一生懸命遊んだ。そして、次の目標を設定した。大学を卒業するなどというのは、全くつまらない目標ではあったが、とりあえずの目標をさだめて、歩き始めたのである。
大学生活について
大学時代の勉強については2つの側面がある。一つは自分が卒業するためにしたことと、家庭教師や塾のバイトでの経験だ。先ずは、自分自身の卒業の為の、悲惨な笑い話を披露しよう。
大学に入って、私はまたしても勉強するということが分からなくなってしまった。先ずは広い大学の校舎に混乱し、入学時にしなければならない科目選択登録などの書類が読めず、あっという間に大学が嫌になってしまった。結局、登録の為の書類は、母と高校生だった妹が読みこんでくれて、なんとか1週間の時間割にハマるように教科選択して書いてくれた。出来上がった時間割通りに教室を探して授業に出始めた私だったが、まあ、先生の話は面白かったり面白くなかったりで、それより何より、学生として何をしなければいけないのか全く分からなかった。
ある一般教養の授業では(それが何かは忘れてしまったが)、一回目の授業で先生の言説に全く共感できず、「そんなことないと思う」という自分の心の声が聞こえたのだが、この心の声に先生の返事が聞こえて吃驚した。「君はもうこの授業に出なくていい!二度と来るな!」というわけで、さっそく1教科落としてしまった。何をすればいいのかわからないまま、うろうろと授業に出ているうちに、前期試験の直前まで行ってしまった。一般教養の英語だけはテキストの英文和訳がはっきり予習として課せられていたので、最初のうちはこれしかやっていなかった。とにかく、辞書を引くだけで私にとっては大変な作業量である。退屈でやっていられないので、下宿に帰ってビールを開け、飲みながら夕食をとり、飲みながら辞書を引き始め、途中からバーボンに変わったお酒をべろべろになるまで飲みながら辞書を引き続け、最後は服のままベッドに倒れ込んで意識を失う。朝起きると体中、部屋中が酒の匂いで、シャワーで昨夜の悪夢を洗い流し、バブル当時に標準とされていた程度の化粧で化けてから登校する。正直、毎日が大変だった。「僕は予習をしてこない学生に単位はあたえない」と言った先生も、まさか私がこんなに苦労しているとは思っていなかっただろう。相変わらずの個性的な身なりでキャンパスをうろつき、歩くことはできないのにバイクのツーリングサークルにも入り、さっそく恋人を見つけて恋愛もしていた私が、そんなに勉強に時間を使っていたとは、誰も気づいていなかったはずである。
前期試験を迎えてみると、一般教養の試験はほとんど論述であって、誤字脱字だらけの文章をゆっくりとしか書けず、字も汚い私には非常に不利と思われた。それでも、ノートは取れないながらも授業には出席していたので、大学近くのコピーノート屋なるもので、誰かの授業ノートをコピーしたものを買い、一読して試験に臨むと、結構良い点を採ることができた。それが、何をどう評価されたものかは、今に至っても謎ではある。授業に出ていた痕跡と、自分なりの意見だろうか。研究するというのがどういうことか知らず、本当に無知だった頃の私は、なんにでも直観的な意見をクリアに持つことができた。これは専門科目にも当てはまっていたように思うが、たくさんの学生の試験やレポートを評価する中で、先生方はちょっと変わった私のこだわり作文を、おおらかに楽しんで甘い点をくれていたのではないかと思う。
さてさて、ノート屋のノートはお金を出すのも腹立たしいほど、質の悪いものが多かった。私は学生から直接ノートを借りることにした。頭がよくて、字がきれいで、出席率のよい学生と、どの授業でも友達になることができた。小学生まで酷いコミュニケーション困難に苦しんでいた私は、大学に入るまでの8年間に、人に好印象を与えて仲良くなる「技」をたくさん身に着けていたのである。しかも、休んでいたからノートを貸してくれと言う虫のいい話ではない。「私は字が汚くて自分のノートが役に立たないから、あなたのノートを貸してくれない」というわけで、ノートは簡単に集まった。