発達障害児の子育てにあたり、親が専門家や支援者からよく言われることは、「怒らないで下さい」ということ。
でも、「怒らない」ってどういうことか、具体的に指示されることは少ない気がする。

「怒らない」をどこまでやるかという話を具体的にしてみよう。

怒らないためには、黙るしかない。
とにかく口を出さずに見守る。
これ、やって見るとわかるけど、ものすごくしんどいですから。

玄関で靴を脱ぎ散らかしていても黙ってそろえる。脱いだ服が散乱していても黙って片付ける。よそ見してご飯をこぼしていても黙っていて後で片付ける。お風呂から上がった後、いつまでも裸でうろついていても黙っている。いつまでもゲームしていても、テレビを見ていても黙っている。もちろん、物を壊しても、奇声をあげて騒いでも、周りに謝ることはあっても本人を責めたりはしない。水遊びをして服を濡らしても、周りじゅうびしょびしょに濡らしても、怒らない。何歳になっても常に着替えを持ち歩いて、黙って始末すればいいことである。親は、謝るのが仕事だと思って頭を下げ続ける。

子どもが自分の指示を聞くなどという考えは捨てた。
とりあえず完全に黙ると決めても、2割くらいは口からでてしまう。
与える情報を最小限に絞れば、子どもの耳には届いていると思う。たとえ、今は反応がないとしても、情報としては子どもの頭に入っているはずだと信じる。どうせ耳に入らないなら、いっそ黙って見守った方がいい。

今ではすっかり落ち着いた娘も、保育園をやめた後の何年間かは酷く荒れていた。棒を振り回して吊り下げ式の電灯が割れ、ガラスが部屋中に飛び散ったことがある。1時間以上も一人でお風呂に入っていて、祖母に「早く上がりなさい」とひと声をかけられたことでキレてしまい、脱衣所で暴れて洗濯機を1台壊してしまったこともある。襖が吹っ飛んで倒れ、お客さんに当たったこともある。一瞬、怒るべきかと迷ったことは何度もあった。でも、本人は苦しくて荒れているのだから、怒る場面じゃないと判断した。

暴言も酷かった。人間としてこんなこと言わせておいていいのかというようなことを言い募る。一生この暴言が止まらなかったらどうなるのだろう・・・とても社会に出せない。それでも、そうなったら私が一生守り続けると覚悟して言わせておいた。今では娘の暴言はほとんど止まっている。それは、叱ったり言い聞かせたからではなく、優しさや思いやり、寛容の価値を刷りこんだからだと思っている。

怒らなくても、ほとんどの事は時期が来れば出来るようになる。その時期を待つことは、親にとって本当に苦しい。でも、怒っても出来るようにはならないし、親の思うようにもならない。力でねじ伏せたら、思春期になってもっと恐ろしい二次障害というしっぺ返しをくらう。黙って待つ、信じて待つしかない。

もうひとつ具体例をあげようか。
娘は愛着がないという自閉的特性を持っていたが、ある時期までぬいぐるみに異常に執着して、買い物に出るたび欲しがった。一つのものを大切に思うことができない彼女は、果てしなく欲しがった。私は果てしなく買い続けた。部屋中がぬいぐるみで一杯になった。「ダメ」とか、「一つだけね」を教えるのが普通の子育てだろうけど、私は経済力の限界まで彼女の渇望に付き合った。そして、本当にお金がない時には、「ごめんね、買ってあげたいけどお母さんにはもうお金がないの」と伝えた。彼女は「お金がない」ことの絶対的な限界と恐れを学んだ。そしていつしか、物を欲しがらない子どもになった。

「怒らない」ことは、子どもと闘わないことであり、一見するとしつけ放棄にも見られる。親は、言いたいことを言わないストレスに加えて、周りからの非難にもさらされるだろう。甘やかしている、ネグレクトだという声はよく聞くが、鉄の心臓で聞き流す。「うちの家風は過保護です」と笑顔で言い切ったことは数えきれない。自分のアリバイ作りの為に、意味がないと知りつつ人前で子どもを叱るポーズをとって、後で自己嫌悪に至るというお母さんの話を聞いたことがある。「怒らない」事はそのくらい厳しいが、とにかく、ブレてはいけない。

怒っても成果は得られない。子どもの自尊感情や自己肯定感を損なうと後で取り返すのは大変だ。大抵の専門家はこのことをよく分かっている。それでも、24時間、365日、何年間も子どもの発達を信じて待ち続けるのは容易なことではない。あなたの苦しみを私も知っている。それでも、一緒に耐えよう、頑張ろうじゃなく耐えようと言いたい。

私たちは怒らずに育てることが出来る。私たちの子どもたちの為なら出来る。