おはようございます
透析を始めて6年10ヶ月
このブログを書き始めて5年10ヶ月になります
この間の心境の変化をちょっと纏めてみようかとふと思いまして、書いてみました
腎保存期は実感が全くなく、あまり塩分やたんぱく質摂取も気にかけず、自由に飲食していました。
その後、風邪をひいたのが原因で当時の主治医から『クレアチニン値が限界、透析導入しましょう。』と告げられ、仕事の調整などを行い、隣町の病院に1ヶ月入院しました
(今の透析病院ではシャント作成手術を行っていなかったので提携してる大きな病院に行く必要があり、今もシャント閉塞があるとそこまで行かなきゃいけない)
当時、透析と言うものがどういうものかわかっていなかったため、携帯を使いいろんなブログを覗いたり、本を読んだりして勉強しました
透析導入時に考えてたこと
・あぁこの治療が一生続くのか
・会社を定時であがれる(病院に行く)から良いか
・4時間何して過ごそうかなぁ、テレビ見るか寝るかかな
・透析始めたら何年生きられるんだろう
入院中にいろんな手続きして、退院後に障がい者年金の申請と障がい者優遇などの手続きなどを市役所で行いました
1~2年
・福岡であった長時間透析研究会にも出席し勉強
・今の透析条件で良いのか
・透析のために生きてるんじゃなくて、生きるために透析していることを認識
・定年後の事(予後)を考えたら長時間、HDF、頻回透析など条件変更できないのかと色々考え、病院と交渉
・透析条件は病院がマニュアルに沿って画一的な治療ではなく、一人一人に合わせた透析をするのが病院の仕事という考えのもとから病院(主治医)と少しぎくしゃくした
・臨時透析(旅行透析)制度により、前もっての準備が必要だが東京出張や旅行をするようになる
3年以降
・自分にできることは自分でやり、できないことは病院に任せる(薬とか検査とか)と割り切る
・飲食などはほどほどを学び、1㎏のお残しとか無茶はしなくなった
・1年以上の時間を掛け、4時間、4.5時間、5時間と透析時間を変え血液検査結果を確認し、主治医はまだ4時間で良いというところを勝手に4.5時間でするという既成事実を作った(現在4.5時間だが出張先など他院でする場合は4時間)
・β2ミクログロブリンの値が悪化したのでオンラインHDFに変更
・新型インフルエンザや地震、水害などの災害に際しては身体障がい者だとつくづく認識させられる。⇒なんかあったときは死ぬなぁと逆に割り切れている(南海トラフ地震とかね)
このことから日々を大事にし、CrariSの推し活を始めたり、やりたいことをやる機会が増えた
現在、患者は患者で出来ることをし、病院側は病院側でやることを任せる。当たり前のことですが、お互いが協力しあって治療が正常に機能するかなぁと思っています