「自由」という言葉を履き違えていないか。
「自由」という言葉は
言葉の中でも使い勝手のいい言葉だと僕は思う。
便利な言葉だとも思う。
だが、そんな使い勝手のいい言葉だからこそ、
便利な言葉だからこそ、
使い方には気を付けなくてはならないとも思う。
又、「自由」という言葉の意味も、
しっかりと捉えなくてはならないとも思う。
まず、自由とわがままは違う。
そして、この世の中において、
「自由」とはどんな時に感じるものか。
もし、何をするには制限ない状況の人がいて、
その人が自分の思うがままにふるまったとして、
それを「自由」ととらえるだろうか?
言葉だけでいえば、それは「自由」でも何でもない。
単なる「日常」だ。
なぜならば、何をするにも制限ない日々が続く人は
制限を感じる事がない。
そうなると、制限ない生活は当たり前の、単なる日常に落ちる。
僕らは「不自由」な日々や生活があるからこそ、
その真逆の「自由」を感じ取れるのだ。
「不自由さ」から解放された時にこそ、
「自由」を感じ取れるのだ。
「不自由」であるが故に「自由」のありがたみがある。
かの有名な、福沢諭吉の言葉にこんな言葉がある。
『自由在不自由中」(自由は不自由の中にあり)』。
まさにその通りだと思う。
”ひと口に自由といえば
我儘のように聞こゆれども、決して然らず。
自由とは他人の妨をなさずして
我が心のままに事を行うの義なり。”
(他人の妨 = 不自由があってこその自由)
「自由」を享受したいのならば、
あえて不自由な中に飛び込むのが1番だ。
「自由」を得ようとして、
不自由な中に飛び込むことが出来ないなら、
それは自由を得たいのではなく、
単にわがままが通せる環境に身を置きたい。
それに近い。