前回の補足的な・・・

 


 

平々凡々が好み。

 

 

 

でも今私がやっている現実の出来事や

やってきた事象を見てそれを人は信用しないんだよね。

 

 

 


(あまりの寒さに駆け込んだTacobellでタコス待ち)



 

だけど

例えば私は映画やドラマのストーリーの

結末を知ってから見るのが結構好き。

 

 

というより

先がわかるなら分かっておきたいから

敢えて自分で調べちゃったり、先に見た人に

聞いたりもしちゃう。

 

 

本なら最後を先に読んでしまうことも多々・・・

 

 

 

ハラハラどうなるのかわからないまま見るのがどちらかというと苦手。

だからストーリー話しちゃう人に怒る人いますが

私は大歓迎なの。

 

 

 

 

漫画とか連載物もだから完結しているものしか

あまり実は読みたく無い。

 

 

 

それぐらい

 

答えを知っていて

(その答えが望むもの望まないものは関係なく)

 

 

 

 

その安心感の中で

その時のその話1つ1つをハラハラしたりドキドキする程度が

楽しい人なんです。

 

 

 

 

そう思うと

 

 

 

 

先を知ったらつまらない!!

って言う人たくさんいるでしょ?

 

そういう人のほうが本当は冒険心がもともと大きいのだと思います。

 

 

 

 

 

そして私にはそれが無いからこそ

 

 

 

 

だから怖さの先をやるために

私はチャレンジする。

チャレンジさせられている。

 

 

でも当たり前だけど

 

最後を知ってる、想定内ということは

 

それ以上のことは決して起きないわけで。

 

 

 

想定内から出るからこそ

 

自分の枠や世界は一段と広がるん

です。

 

 

 

それも、こうした1つ1つの自分をつかった実験で

体感できてきているから私は続けられる。

 

 

でも、好みだけでいえば

今も、結末わかった上での楽しみ方が好みな私。

 

 

 

今回は想定外のその先がただの気づきや

体感で終わることなく

 

 

次のステージへの大きな扉のように

開いて

 

 

あまりに自分を見失い、あまりの無価値観と

自分への惨めさのような

 

得体の知れない何かを味わうことになって

 

 

 

こんなに苦しいんだ。

 

を味わいました。

 

 

「なんで??私ばっかり」

「なんで、今更こんなことになるの」

「もうやだ!!いい加減にして」

「こんな人生なら終わっていい」

 

 

 

 

本気でもう今まで使えていた

 

わかっていた理論や仕組みが使えなくなってしまって。

 

 

自分の人生の舵取りを失う。

自分からずれる。

 

それはこんなに苦しいことなんだ。ってもう嫌というほど味わった。

 

 

本当、苦しかった。

 

その苦しさがあったから

後に大きな1つ自分の思い込みも発見しました。

 

 

それは

 

「あり方を伝えている私がブレてはいけない。」

「私はちゃんとしていないといけない。」

 

私ずっとこの3年そんなの手放して

 

苦しい時は苦しくて何もしていません。

 

って伝えてきたつもりでしたが

 

上っ面でした。

 

 

 

 

根底にはまだこうして

「ちゃんとしていないとダメ」が根強くあって。

 

 

仕事を全部ストップしてそして、何よりこんなに自分が苦しんでいる最中

で何も無い状態の今ですら

そんなことを思っている自分に絶望。

 

 

本当は

 

こうやって挫折もするし、自分自身が悩むからこそ

その経験を通して伝えられるのに。

 

 

 

 

ブレたこともなければ成功体験しかない人の話なんて

何も説得力がないし、自分ならあまり参考にもしたくない。

 

私ならそう思うのに・・・・

 

でも、自分に対しては

 

 

 

 

成功していない自分でないとダメって思っていることにも

今回の経験で気づいて。

 

まだそんなことも握りしめてるんだな。

 

 

 

そりゃ、全部無くさないとこの頑固な

思い込みは壊されないわけだ・・・

 

と妙に納得したんです。

 

 

 

全てはよくなるために。

 

 

やっぱりそう思います。