子供のころ、外国というと「アメリカ」を指していた時代が
長く続いたいたように、指揮者というと「カラヤン」であった
時代も長く続いたように思います。
おそらく、カラヤンほど、音楽ファン、クラシックファンに限らず、
多くの人に名前を知られた指揮者はいないと思います。
それはカラヤンの前にも、後にも現れていないようです。
ただ、クラシックの愛好家の中で言えば、もう一人の名前が
挙がるのは確実でしょう。カラヤンの前任者です。何の前任か
というと、ベルリン・フィルの首席指揮者というポジションです。
伝説の人、フルトヴェングラー。その鬼気迫る指揮ぶりは、
多く語り継がれているので、ここで私が繰り返すことはしません。
ただ彼と彼の後継であるカラヤンとの間にあった人間臭い、
葛藤と確執は、それだけでも興味深い一編の小説になりうる
もののようです。それも音楽だけの領域ではなく、両者ともに
台頭してくるナチスとのかかわり、隆盛を誇るナチスとの、
没落と陥落と崩壊するナチスとの距離のようなものが絡まり
時代にも翻弄されながら、それでも、孤高の頂きで音楽を愛し、
クラシックの世界に王として君臨した二人の指揮者の生き方は
とても興味深いものがあります。
なりたい職業に必ず挙がってくるオーケストラの指揮者は、
観客に背を向け、これから創造する「音楽」の女神にだけ
ご機嫌を取り、奏者たちに睨みを利かせ、威嚇し、懐柔し、
その気にさせ、天にも導かんとする高揚感をあふれださせ、
その瞬間だけに存在する音の芸術で、観客も奏者も、そして
自らをも魅了してしまうのです。
映画監督は、エンドロールにその名が3秒ほど流れるだけだし、
ナショナルチームの監督も、野球であれば、選手交代の合図の
ときだけ、サッカーの監督はその姿がほとんど映しだされず、
ラグビーの監督に至ってはグラウンドにも入れず、観客席で
ひっそりと応援するだけ。
一方、オーケストラの指揮官である、指揮者は、その芸術の
ただ一人の体現者であり、パーフォーマーであり、スポット
ライトを一人占めにしているのです。カラヤンが音だけではなく、
映像にこだわったわけはそこにあるのかもしれません。
確かにカメラアングルまで指定したヴァイオリンの並ぶ向こうに
映し出されるカラヤンは美しい!