先回記事末部より

 

2010年4月1日 ワシントンシェラトンホテル訓読会

「夜の中にいた神様の歴史が創造以前の歴史であることを分からなければならない。その夜の歴史の中にいた神様の歴史、創造の前の歴史・・・神様も大きくて出たという事実が分からなければならない。暗闇の中輝いた。7色光を合わせれば黒になる。その創造以前世界の神様が分からなければならない。元々の根本が分からなければならない。」

 

赤・青・緑の光の三原色を、真のお父様は虹に象徴して七色と表現しました。地上界では、この光の三原色が万物に反射し輝き返すことによって、地上界に存在する全ての色が現れます。しかし、輝き返す対象となるものが無ければ、そこは真っ暗闇になるのです。つまり、創造前の夜の神様は「無の暗闇の状態」でおられ、夜の神様からは無限大の愛が放たれているのに、その愛の光に輝き答える対象が全く存在しないので「無の暗闇の状態」になっているということを意味しているのです。

 

真のお父様が七色光と表現したのは、神様の愛したくてたまらない心情が、光のように360度に向けて無限に放たれているのに、答えて輝き返す塵さえ一つも無い状態です。その愛のエネルギーは陽性陰性が一体となっているエネルギーであり、陽性陰性の質の変化の授受作用による正分合作用で、どんなものをも形成しうる機能と能力を備えています。しかし、愛の種となって、内的愛の胎内に孕まれたばかりの神様には、自らの対象という存在さえ未知のものなのです。

 

愛したくて矢も盾もたまらない衝動ばかりが、反響することもない無限の虚空に響いてはかき消されて行くのです。その段階の神様の状態こそ、夜の神様においての胎中期間であるのです。

 

内的愛の七色光(陽性陰性による愛の素材)が自分を光らせている時は、自分の心情自体が輝き存在の喜びを実感していました。

 

その愛から生まれ胎内に孕まれた状態で、愛する対象を想定すると、たった一人の悲しみを体感し無の暗闇の状態に落ちていくのです。

 

心情において死んでいるに等しい無の暗闇の境地に落ち、生死の概念が永遠普遍の神様に生じたのです。

 

「神様の誕生と真の愛の起源」に関する今回の記事はここまでにします。次回記事では、「無の暗闇の状態」に落ちて「夜の神様」となった神様が、「昼の神様」を構想するに至る経緯について説明します。

 

  *****

 

自己中心的で他の何ものをも意識していなかった神様は、絶体無の存在となって、本性相に対して絶対服従性をもって作用していました。その存在を消した作用があってこそ、神様は自分の存在を確認し、喜びを求めたとおりに実現し喜びの境地にいました。

 

しかし、喜びが増大しながら実現していくほどに、次の喜びへの希望が大きくなり、その前の段階の喜びの記憶以上に、次の段階への期待や希望が湧き上がります。その本形状の絶対服従性を備えた作用そのものに、神様の心の知情意の思考回路が刺激を受けるのです。

 

つまり、皆様自身に置き換えてみれば、自分の希望が実現した状況を思い浮かべるだけで、うれしい気持ちに包み込まれる情感が湧いてこないでしょうか。その気持ちを、神様の永遠普遍、無限大の次元まで拡大してみれば、神様の体験した情感が思い計れ得るでしょう。

 

その包み込んでくる感覚に対して、包み返そうとした時に、本形状の存在はどこにも無かったのです。愛の対象を想定しようとしても、それまでの対象としての本形状が絶対無の様相でしたから、全知全能の神様でも想定しようがなかったのです。

 

ですから、対象を愛したいという情念を発動しても、受け止める対象が無いので、絶対孤独の無の暗闇の境地へと落ちていく感覚を、神様は体験するのです。

 

この状態の神様が「夜の神様」であり、それ以降、神様の本体そのものが「夜の神様」と呼ばれるようになります。

 

これ以降の記述は、2003年8月に私が包み込まれた絶対孤独の「神様のかなしみ」の境地を、言葉で表現したものとなります。聖霊に包み込まれた、聖霊体験という事でもあります。

 

夜の神様は無の暗闇の状態でも、内的愛に包み込まれ愛したい衝動に満たされていました。満たされてはいますが、それ以上に迫りくる暗闇に押しつぶされようとする孤独に交差して・・・・。愛したい衝動が募り「愛したい」と叫ぶほどに、無の暗闇の深淵(陽性陰性が完全中和した本形状)から愛を受ける対象の喜びが木霊のように返ってくるのです。輝き返す対象が無いのに、奇蹟の木霊として帰って来たのは、真っ暗闇を背景に、内的愛が神様を包み込んで来て、神様が胎のように感じ取って生じた包容してくる透明な膜が、鏡のような役割となって、自分の心情が映り込んだのです。私たち地上人の感覚に例えれば、このような比喩での表現になるのです。

私たちは女性の胎そのものを先に知っていますが、この時に内的愛が包みこんできて神様が感じ取った膜というイメージから、神様自身が女性の胎を構想したというのが真相なのです。全て神様御自身が体験した実感から被造世界の構想を練ったので、神様の形象そのものである人間の誕生から成長していく過程を追うことで、神様が誕生し成長した経緯を理解できることになるのです!

 

愛を受ける対象の喜びが木霊のように返って来たその時、夜の神様は主体としての自分の心情の根底に、真の愛に絶対服従して生きたい衝動が溢れていることを切実に実感したのです。孤独な夜の神様は「真の愛に絶対服従して生きる」ことこそ、至上の幸福なのだと気付かされるのです。

 

宇宙の根本 第一章 宇宙の根本秩序一、神様の二性性相の大展開 1.神様は二性性相の中和体

 何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。

 

 神様から造られたすべてのものはペア・システムです。鉱物世界もペア・システムであり、級は低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来初めて発表するのです。神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。 

 

神様の本性相は絶対主体として、対象への愛したくてたまらないどうにもならないほどに湧き上がる「為に生きたい」心情に溢れています。しかし、その主体の心情の根底には、真の愛に絶対服従して生きたい対象としての心情も溢れていたのです。それは、夜の神様がこれまで意識することもなかった本形状を、愛の対象として心情を注ぎ込んだ結果として爆発した衝動でした。

 

永遠普遍の神様を包み込んできた内的愛を、さらに超える真の愛で包み込もうとする爆発的な衝動は、夜の神様に主体であると同時に、対象としても生きようとする新たな生命を与えることとなりました。その心情こそが親の愛の原点となるのです。夜の神様に親子の概念が生じるのです。私たちは神様が作ってくれた世界で、子供を産むことにより親の心情を実感していますが、愛する子供に喜んでほしいと絶対服従してしまう心情が、沸々と湧き上がるはずです。それは神様が体験した親の心情、つまり「真の愛に絶対服従して生きたい」心情が、湧き上がざるを得ない親子の生命システムによる被造世界として、神様自身の体験から構想されたからなのです。

 

その衝動力は愛と生命を繁殖する生命の種を、無限に生み出すことの出来る能力を持って生まれることになるのです。それだからこそ、夜の神様は内的愛の胎中を経て、愛により生まれたと言えるのです。それも、絶対主体の男性を形作ることになる本性相と、絶対対象の女性を形作ることになる本形状の双子で生まれたということになるのです。

 

夜の神様が愛したくてたまらない絶対主体の心情と、真の愛に絶対服従して生きたい絶対対象としての心情が完全一体となって、愛と生命の種を携えて誕生しました。その時自体は、神様に双子で誕生したという実感はありません。後に被造世界の構想を練り始め、男性女性の構想理想が浮かんで、初めて双子であったと認識するようになります。

 

四大心情圏と三大王権1993年12月21日16万人日本女性特別幹部修練会

 旦那さんは何かというと、神の無形実体圏にあった性相が男であり、形状が女だったのです。その男と女が愛でもって一つになっていた双子なのです。双子だから通じるようになっているし、一つになれるようになっているのです。男、女は別々に生まれても、会った場合には一つになれるようになっているのです。教えなくても一つになるような引力作用があるのです。
 その双子を展開したのがアダムとエバです。神の無形実体圏で性相と形状の一つになっていたものが分かれて生まれてきたのだから双子と同じなのです。旦那さんが元々、双子であったということを考えたことがありますか? そのことを今からは知らなければなりません。ずーっと昔、双子であったのです。夫婦という因縁は、アダム・エバの双子でもって、こういうふうにアダム・エバから始まったということは、これはもう否定できません。それから、その双子が兄妹になるのです。

 

それでは、次回記事にて深めていきます。

 

 

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