先回記事重要部分より
果たして皆様は、男性という存在及び女性という存在に、神様が何を期待したのか、分かっているでしょうか。真のお父様は次のようにも語られています。
**2006年2月20日安侍日の敬拝式及び朝の訓読会でのみ言より**
そのために神様が創造をアダムを先にしたのか、女を先にしたのか?いくら生まれがよかったとしても先有条件物である女が必要でありうるようになった。精神的創造は女を神様が先にしておいて、男は不足品の創造物だと言うのだ。女マンセー(万歳)、言ってみなさい。「女マンセー。」大きく言ってみなさい、この身分の低い奴ら!「女マンセー!」(笑い)それはそうでないと否定できない。
**引用終了**
このみ言において、「精神的創造は女を神様が先にしておいて、男は不足品の創造物だと言うのだ。」と語られている部分に注目してください。「男は不足品」だと語られています。
つきつめれば、全知全能の神様にも、不足なものがあったということです。その不足なものを満たす為に、男性を構想し、女性を構想したということになります。
果たして神様が自らの存在に、不足だと感じたものは何だったのでしょうか。その不足と感じたものを、神様は自分のかたちに造ったとまで聖句に示している男性を通して、どのようにして充足させようとしたのでしょうか。
その全知全能の絶対者としての神様に不足だったものとは、先回記事の最後に記した次のみ言に解き明かす鍵があるのです。
「アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。」
核とは神様のことであり、その神様をアダムとエバが包み込んでくるのだと語られているのです。アダムとエバの間に成就される四大心情圏の真の愛に、神様が包み込まれるという事なのですが、このような体験を性相と形状で構成される前の神様が、同じような体験をしているのです。
性相と形状で構成される前の神様とは、創造前のたった一人で存在していた神様となります。その永遠普遍の無限大の神様を、スッポリと360度から包み込んで来た体験を、神様は実感したというのです。
たった一人の存在でいた神様も、喜びの境地で存在していました。その事は真のお父様も語っておられます。
次回記事において、その自己中心的な神様について語られたみ言を引用しながら、永遠普遍無限大の神様を包み込んで来た存在は何なのかを、考察していきます。
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それではまず、自己中心的な神様について語られた、真のお父様のみ言を取り上げます。
「御旨と世界」 人間に対する神の希望より
「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」
被造世界の創造を始める前の神様・・・、もっとつきつめて言えば、創造を思い立つ前は、他の何ものをも意識することなく、自らの喜びだけを求めて存在していた神様だったのです。
「為に生きる」という概念からほど遠く、自分の喜びを充足させることだけが神様の存在意義となっていたのです。でもそれは悪ではなく、神様以外の存在が無い状態では、最大最高の善だったと言えます。
ではどのようにして、喜びを充足していたのでしょうか。全知全能絶対者の神様ですから、自分の願うこと望むことが、そのごとくに実現していた神様です。
真のお父様は天聖経の宇宙の根本において、次のみ言を語られている事は、すでに3日と4日の記事で取り上げています。
「愛を中心として形成されます。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。」
神様は自分の似姿として人間を造られました。ですから、自己中心的な神様とは、私たち人間がたった一人で喜びを感じている状態から、推測することが出来ます。
私たちは喜びを実現した状態を、想像するだけでも、ほのかな喜びが心に生じます。あるいは、今までにないものを作り出そうとするときに、それを可能にする設計図や構想図が思い浮かんだ瞬間にも、喜びを感じることが出来ます。
また、違った視点になりますが、私たちに人間の脳の仕組みを考えてみましょう。ネットに上がっていた脳神経外科准教授の解説を引用します。
**引用開始**
産経新聞ニュース
脳の働きは電気活動で営まれている(県立医科大学 脳神経外科 准教授 小倉光博)
脳を地球にたとえると、地球上のコンピューターがインターネットでつながってさまざまな情報をやり取りしているように、脳では神経細胞同士のつながりがさまざまな脳の機能を可能にしているわけです。神経細胞間の情報伝達もインターネットと同様、電流で伝えられています。すなわち脳が働いているとき、脳には電気が流れているということです。
脳の働きは電気活動で営まれている。このことを見る、聞く、味わう、嗅ぐ、感じるといった知覚で考えてみましょう。
たとえば、ものを見る視覚は、目に入ってきた光の信号を目の奥の網膜の神経細胞が電気信号に変換します。その電気信号が視神経を伝達して大脳皮質の後頭葉の神経細胞を興奮させます。後頭葉は視覚を感じる領域なので、われわれは脳の中のスクリーンに現れた映像を見ているだけなのですが、あたかも本当の外界を見ているように感じることができます。
同様に音は耳の奥の内耳で、味覚は舌の味覚神経で、においは鼻の奥の嗅神経で、体の痛みなどの感覚は皮膚などにある感覚神経で、いずれも電気信号に変換されて脳に送られ、それぞれの知覚として感じとられます。つまり外界の出来事を電気信号に変えて脳が勝手に感知している、ということになります。
少し哲学的な話になりますが、人間は世界を直接見ることができないともいえます。つまりそこにあると思っているものが実はあるかどうかわからない、脳が電気信号を介してそのように知覚しているだけかもしれません。これはまさに般若心経でいうところの、「この世はすべて空である」という考えにつながります。お釈迦様ははるか昔から脳の仕組みを見抜いていたのかもしれませんね。
脳とはなんとも不思議なものです。
**引用終了**
脳は目や耳や鼻、口、皮膚などの五感を通して取り入れた情報を電気信号に変換して脳に送ります。その電気信号が脳の各部位を刺激することによって、その人自身の心に、外界の世界が脳に映し出されて展開するのです。つまり、外界の世界が存在しなくても、電気信号を作り出して脳に送れば、実際には外界に無い世界でも、あたかもそこに自分が存在する感覚を味わってしまうという事です。
創造前の一人で存在していた神様にとっては、神様の自体内で展開される世界以外は存在しないのですから、神様の知情意の思考を通して作り出された自体内の世界こそが、その次元での神様にとっての現実の世界だということになります。自己中心な神様にとっては、永遠普遍の自体内で思考によって展開される世界こそ、神様にとっての全てであったわけです。
全知全能の絶対者である神様が造り上げる世界ですから、その世界は永遠に続いても飽きることの無い美に満ちた喜びの世界であったという事です。そこで造り上げられた神様の世界は、真のお父様が十二次元まであると語られた世界を遥かに超えている環境であって、三次元に存在する人間からでは想像も出来ないような世界であったはずです。
その神様のみで喜びを満喫していた世界を構築する為に、神様の情の源泉から、常に本性相と本形状が正分合作用を展開しているのは当然のことです。しかし、それが主体と対象にいったん分立されているなどとは感覚できないほどに、本性相と本形状は一体不可分の感覚で展開されてきたのです。
読者の皆さんも、頭で考えたり、喜怒哀楽を感じるのに、脳に流れる電気信号を感じ取ることが出来るでしょうか。電気信号を作り出すエネルギーは、完全無の存在となって作用してこそ、意識や思考や情念として鮮明に自覚できるようになるのです。
神様自身には、本性相と本形状の授受作用による正分合作用は、意識上ではその作用の結果が自覚されていても、本形状の前段階エネルギーは完全無の状態で作用しています。この本形状が完全無の状態で作用していたという事こそ、とてつもなく重要な意味を持ってくるのです。
本形状は絶対無の存在ですが、その作用は厳然として働いているので、創造前の神様においても、明らかに四位基台の造成によって喜びの存在となっているのです。その喜びは、情の源泉となっている心の世界に実感として結実します。
そしてさらなる喜びを求めて、本性相と本形状の正分合作用により、意識上に思考世界が浮かび上がり、その喜びが存在の動機を生じさせる情の世界に帰り結実するわけです。ですから、この神様の喜びを求める衝動を中心とした、本性相と本形状の三位による成分合作用によって無限に繰り返されているのです。その存在の喜びは無限に大きくなっても、尽きることなく溢れ満ちることも無く大きくなっていくはずです。
そのより多きな喜びを求める心は、限界などあるはずもありません。ですから、全知全能で絶対者であった神様において、不足なものなど有りうるはずも無かったのです。
ところが、無限に増大する喜びの神様を、360度から包み込んで来た存在があったのです。実際には、存在と感じ取ることが出来た作用があったと表現できるでしょう。
それは、次回の記事で・・・。
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