「人を着るということ」(小野原教子著、晃洋書房発行)を読む | MSIBATAの外大便り

MSIBATAの外大便り

学び直しで神戸市外国語大学に社会人入学したのを機会にブログ名も変更しました。
慣れない語学の学習、日々の予想だにしない様子をお伝えできればと思います。
大衆食堂、大衆喫茶、大衆酒場関係の記事は↓
https://mshibata.hatenadiary.jp/

「人を着るということ」(小野原教子著、晃洋書房発行)を読んだ。

 

 

本書のことを知ったのは著者の「井戸書店で取り扱っていただくことになりました」というような”つぶやき”がきっかけだった。

神戸の板宿にある井戸書店の店長・森氏はユニークな書店つくりで著名であるが、それ以上に私にとっては大変お世話になっている方で、冊子「神戸立ち呑み巡礼復刻版」を100冊近くも販売したいただいたのである。

 

ある日、寄ってみると在庫がないとのことで予約させていただいた。やっと入荷したとの連絡を受けてバスと地下鉄を乗り継いで取りに行ってきた。せっかくなので滝川学園の近くの角打ちにも、もちろん寄ったことは言うまでもない。

 

前置きが長くなったが、まず出版社の案内を引用する。

 

こころは服を着るからだ
  奥行きのファッション論へ

衣服と言葉はそんなにも似ている。人として生きるということは、意味を着たり脱いだりしているということ。ファッションは時代と環境のなかで常に変化していくけれど、変わらないことがある。衣服はからだの枠組みを作り、こころを着て他者に呼びかけ、動いて関わり、自我を隠すも自ずと現われ、ひとり遊ぶこともできる、空虚な中心のわたしの分身。その普遍の理論である着る行為の意味を探究する。

日本語パート、英語パートのあいだには、付録として、詩とマンガ作品を収録。
日本語パート(縦組、右開き)目次

 はじめに
 序 論 着ることと脱ぐことの間ーーパジャマのままで走ってきたの
 第一章 人を着ているとは言えないだろうか
 第二章 北園克衛とファッション
 第三章 林芙美子『女家族』にみる日本の西洋文化の受容
 第四章 現代イギリスファッションにおけるキモノ文化受容
 第五章 袈裟とファッション
 第六章 智慧としてのファッションーーこころは服を着るからだ
 結論にかえて 我着る、ゆえに我あり
 あとがき

 詩 「真夏の星座」 小野原教子(English Translation: John Solt)
 マンガ「きぼうまめ」森元暢之(French Translation: Benjamin Hariot)

英文パート(横組、左開き)Contents

 Preface for English Part
 I  Whom Do You Dress up for?: Gothic Lolita Fashion in Japan
 II  Japan as Fashion: Contemporary Reflections on Being Fashionable 
 III Costume and Trauma: Reception of Japanese Fashion in Britain Through Five Exhibitions in London
 IV  Design of Silence: Transmission of Kesa in Soto Zen
 V  You Are Everything and Nothing: To What Extent Does Japanese Manga, Comics and Fashion Culture Influence the Current Contemporary U.K. Comic Scene? 
 Acknowledgements

 

いやはや、内容の紹介だけでも随分と場所を取ってしまったなあ。

 

「読んだ」と書いたが、英文パートはまだで日本語パートと詩と漫画部分だけを読んだということである。

 

奥付を見ると著者は文化記号論、ファッション研究の大学教員である。これに加え詩人としても活動し、格闘技プロレスにも詳しい。筆者との共通点と言えば、会社は異なるが大手の繊維会社に一時勤めていたことくらいであろうか。私が勤めていた会社は残念ながらこの世から無くなってしまった。

 

文化記号論やファッションを研究する分野を専門とする著者のここ10年の論文が下敷きになっていると聞いて、序論はともかく、難解な著作に違いはないと読み始めたのであった。

 

まず序論、

人は社会的動物である。ならばパジャマで外に出るのは震災等の非常事態以外は具合が悪いことになるのだろう。それはどこで教わったのだろうか。自然と学んでいったのであろう。

 

第1章 人を着ているとは言えないだろうか、

著者は問う、人はなぜ服を着るのだろう。

この問いを考えるとき、著者は動物と人間の境について考察する。

確かに”人=服を着る動物”に違いはないが、動物だって生まれつき身体保護や身体装飾の衣装をまとっていると考えられないことはない。

人との違いは衣装を脱いだり着たり、ヴァリエーションを楽しむことができない点にあるのではなかろうか。したがって人以外の動物に”こころ”があるのかどうか、そういうものの発信は極めて難しいだろう。

 

第2章 北園克衛とファッション、

著者はマルチ・アーティストであった北園克衛を通してのファッションを考察する。

北園克衛の作品を取り上げているのだが、なかなか手ごわくて難解だ。つまるところ「北園克衛はファッションという表現形式を借りて詩を作った。あるいは詩の中にファッションの方法を取り入れ実践していたといったほうがいいかもしれない」と著者はいう。

ま、読んでください。

 

第3章 林芙美子『女家族』にみる日本の西洋文化の受容、

この章は林芙美子の作品「女家族」を取り上げ、日本の衣服が洋装化していく様子を論じていて、比較的理解しやすかった。

ここでは、ミシンに注目したい。「女家族」の舞台は戦後まもなくの頃だろうか。昔の我が家にも足踏み式のミシンはあった。大正の後半に生まれた母が嫁入り道具のひとつとして持って来たのかもしれない。どの家庭も貧しく、職業婦人としてミシンを洋裁に使ったのではなく、子供が遊んで服に傷をつける。その修理がもっぱらの用途だったと思われる。

私が結婚したとき妻がミシンを持参した記憶は無い。必要になってから電動式のミシンを買い求めた気がする。ユニクロ等で安価で購入できる現在のミシン市場はどうなっているのか、家庭ではほとんど見られないのかも知れない。

一方、この章に現れるスタイルブックのデザインが色あせて見えないのは気のせいだけだろうか。

 

第4章 現代イギリスファッションにおけるキモノ文化受容、

前章とは逆に、日本の民族衣装である着物の輸出とそれに付随することの考察である。それは読んでいただくとして、気になるのは着物の未来である。着物という民族衣装がありながら、洋服に席巻されて、一般市民の間では、よほどのことがない限り着物を着るという習慣が薄れているのではないか。日本好きな外国人タレントが着物を着て赤ちょうちんに入るようなことが話題になるような昨今である。我が家でも母親が残した膨大な着物がある。中には袖に手を通さなかったのもあるように思える。リフォームして使うような術もない。いまのうちに業者に(有償であっても)引き取ってもらうことを考えないわけにはいかない。えらい時代になったものだ。

 

第5章 袈裟とファッション、

袈裟についての貴重な考察であるが、袈裟の起源において「装飾品としての値打ちを断ち切るように、布を裁断して小さくすることで人の欲しがらないものにする。それは人の思惑を断ち切ることでもある」との解説には驚きを隠せない。また言葉の由来の項では「本来この衣装は人の欲しがらないものでなければならない」とある。現代においては、人の欲しがらない=捨てられる着物、を見つけることは困難のように思えるが。

 

第6章 智慧としてのファッション―こころは服を着るからだ、

最終章になるわけだが、メールアート/コラージュ作家のニコラ・オーリックの作品を紹介しながら、人が衣服を着ることとその可能性について考察である。

この章もなかなか難しい。現代アートを読み解く力が要るようだ。わかるところだけを。

一人の数学者は言った-人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したもの。

数学者とは岡潔。その著書「春宵十話」からの引用であるが、なんと私が十代のときに読んでいたのであった。その本とつながる不思議。

著者はこう結ぶ「智慧とは、自由への道。清浄なるものを、思考しながら。服を着るのは、からだとこころ。こころは服を着るからだ」と。須磨寺から南の方に伸びる道に「智慧の道」があることを思い出した。

 

本書は難しいところもあり、すらすらと読めるわけではないが、なるほどと理解ができるところもあって、楽しく読むことができた。”人を着る”とは言いえて妙である。

要は衣服を着ることで、人は何かを発信しているわけで、それがほかの動物にはないところとの理解でいいのかな。となれば、明日から着るものには注意を払おう(笑)

 

第6章の後の「結論にかえて 我着る、ゆえに我あり」、

115ページに「二十歳の青年」と題する一枚の写真がある。キャプションを見ると「撮影:hair design cero(2020)」とある。昨年だったか、北野のあるイベントで百窓文庫が出店していた折に、私が”まゆ毛”をカットしてもらったあのceroさんではないか。不思議なご縁がこの難しい書物をやわらげてくれた気がする。

そして著者は原口銃三の「二十歳のエチュード」の言葉「表現は、生まれ落ちた途端に自己から離れて、獨立する」で締めくくる。

先の岡潔や原口銃三の名前は私の世代では良く知られた存在であったと思うが、いまの若い人にとっては無きに等しいか。

 

これから英文パートをじっくり読ませていただきます。それからまた日本語パートを再読しよう。