私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ… -23ページ目

私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しく日本テレビ局へハガキ応募
タイガーマスクのデビュー戦の四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの熱烈な元愛読者の彼
(gooブログ閉鎖によりアメーバブログへ移転・引っ越しました。)

サンチェス製、本人使用。

メキシコでの試合(詳細不明)や2011年11月20日、帝王降臨 府中プロレスルチャ新木場1stRING大会大会前日のイベント等で本人使用。

着用写真2枚、直筆サイン入、大会ポスター付。

カネック

カネックCanek、本名:Felipe Estrada1952年6月19日 - )は、メキシコ 出身の覆面レスラータバスコ州フロンテーラ出身。日本では「仮面の魔豹」「盗賊仮面」などの異名で呼ばれた。マスクのデザインは、マヤアステカなどメキシコ古代文明の文様をモチーフとしている。

リングネームの「カネック」は、スペインによる支配に反乱を起こしたマヤ系インディオの指導者ハシント・カネック(Jacinto Canek)にあやかったものである。エル・カネックEl Canek)と表記・呼称される場合があるが、"Canek" は固有名詞であるため、スペイン語圏であるメキシコのリングネーム表記は定冠詞の "El" が付かない。

1970年代後半から1980年代にかけてが全盛期で、当時メキシコマット界の第一人者として活躍、ミル・マスカラス最大のライバルとも謳われた。弟はプリンシペ・マヤ、実子がカネック・ジュニア

来歴

ボディビルで体を鍛えた後、1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスールPríncipe Azul)の名義でデビュー。その後、1973年3月24日にカネックリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ。

1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ウォー・クラウドと組み、ミル・マスカラスエル・ソリタリオレイ・メンドーサ組と対戦。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレス(後のスペル・マキナ)から北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。

1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる。以降、テムヒン・エル・モンゴルストロング小林ブファロ・アレン(バッファロー・アレン)ビル・ロビンソンタイガー・ジェット・シンパット・パターソン藤波辰巳長州力スタン・ハンセンなどの強豪を相手に防衛戦を展開。「UWAの帝王」として活躍した。

デビュー以来、主にルードのポジションで活動し、マスカラス、ドス・カラスエンリケ・ベラティニエブラスなどのリンピオと抗争を展開していたが、上記の挑戦者群など、アメリカやカナダ、日本から参戦してくる外敵を迎撃する役割も担った[10]1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木NWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場、8月24日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。

1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた(結果はドロー)。

1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回。以後、1990年代グレート・コキーナブルー・ブレイザーバンピーロ・カサノバヤマトブラック・マジックミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた。

日本での活躍

1978年3月の初来日以降、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となって活躍。藤波辰巳とは1977年の藤波のメキシコ初遠征以来の因縁があり、日本とメキシコを股にかけて抗争を展開した。1979年4月の再来日ではMSGシリーズ第2回大会に出場、予選トーナメントで藤原喜明に2勝して決勝リーグに進出した。1981年11月の来日では初代タイガーマスクとも対戦。1983年5月にはIWGP決勝リーグ戦に中南米代表として出場している。年末に開催されていたタッグリーグ戦には、1981年にスペル・マキナ、1982年ペロ・アグアヨ1985年ドス・カラスと組んで出場した。

1992年にはW★INGプロモーションに来日、ミル・マスカラスとの日本における初対決が実現し、マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座とカネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。1995年にはレッスル夢ファクトリーの旗揚げ興行に参戦している。

2001年12月23日、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代打として久々に来日し、総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦して、1ラウンド4分55秒、パウンドでTKO勝ちを収めた。

2018年10月、ドラディションの "Dradition The Revenge Tour 2018" に参戦。同月19日の後楽園ホール大会と21日のATCホール大会での6人タッグマッチにおいて、藤波との約30年ぶりの対戦が実現した。

敵前逃亡事件

カネックは1978年3月の初来日時、いわゆる「敵前逃亡事件」を起こしている。これは、3月30日に予定されていた蔵前国技館での藤波辰巳とのWWFジュニアヘビー級王座戦への出場を当日になって急遽キャンセル、そのまま独断で帰国してしまったものである。やむなくタイトルマッチは中止となり、当日、藤波はイワン・コロフとのシングルマッチを行った(コロフは当日、2試合に出場した)。

前代未聞の敵前逃亡として話題になったが、カネックは来日中、3月18日の藤原喜明戦および翌19日の木戸修戦で勝利したものの膝を負傷し、その後の6大会を欠場するほどの怪我を負っていた。また、この事件の背景には、新日本サイドがカネックの覆面と藤波のWWFジュニア王座を賭けて戦うコントラ・マッチを直前になって一方的に通告してきたこと、さらに、同じシリーズに参戦していた一部のアメリカ人レスラーが、メキシコ人に対する差別意識から、タイトルマッチ直前の28日深夜に宿泊先のホテルでカネックに暴行を加えていたことなどが発覚している(首謀者はロン・スターとされる)。

これらの諸事情が判明したことから、翌1979年4月にカネックは再来日を果たし、藤波のWWFジュニア王座に2回挑戦。以降も常連外国人選手として活躍するなど、敵前逃亡の汚名を返上した。

 

Wikipediaより

 

 

 

 

サンチェス製カネック オルメカ模様 本人使用済みです。
 
平成30年(2018年)10月19日 後楽園ホール プロレス・ドラディション DRADITION 2018 THE REVENGE TOUR in TOKYO 藤波辰爾、越中詩郎、丸藤正道組対 カネック、藤原喜明、KAZMA SAKAMOTO組戦にて本人使用。
 
着用写真10枚、直筆サイン入り(日付及びメッセージ入り)。
 
大会ポスター、大会パンフレット、大会チケット、試合掲載雑誌付き。
 

カネックCanek、本名:Felipe Estrada1952年6月19日 - )は、メキシコ 出身の覆面レスラータバスコ州フロンテーラ出身。日本では「仮面の魔豹」「盗賊仮面」などの異名で呼ばれた。主にマヤ・アステカ等メキシコ古代文明の文様をモチーフとしたマスクが特徴。

リングネームの「カネック」は、スペインによる支配に反乱を起こしたマヤ系インディオの指導者ハシント・カネック(Jacinto Canek)にあやかったものである。日本では「エル・カネックEl Canek)」と表記・呼称される場合があるが、"Canek" は固有名詞であるため、スペイン語圏であるメキシコのリングネーム表記は定冠詞の "El" が付かない。

1970年代後半から1980年代にかけてが全盛期で、当時メキシコマット界の第一人者として活躍、ミル・マスカラス最大のライバルとも謳われた。弟はプリンシペ・マヤ、実子がカネック・ジュニア

来歴

ボディビルで体を鍛えた後、1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスールPríncipe Azul)の名義でデビュー。その後、1973年3月24日にカネックリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ。

1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ワー・クラウドと組み、ミル・マスカラスエル・ソリタリオレイ・メンドーサ組と対戦。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレス(後のスペル・マキナ)から北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。

1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる。以降、テムヒン・エル・モンゴルストロング小林ブファロ・アレン(バッファロー・アレン)ビル・ロビンソンタイガー・ジェット・シンパット・パターソン藤波辰巳長州力スタン・ハンセンなどの強豪を相手に防衛戦を展開。「UWAの帝王」として活躍した。

デビュー以来、主にルードのポジションで活動し、ミル・マスカラス、ドス・カラスエンリケ・ベラティニエブラスなどのテクニコと抗争を展開していたが、上記の挑戦者群など、アメリカやカナダ、日本などから参戦してくる外敵を迎撃する役割も担った。1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木NWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場し、8月24日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。

1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた(結果はドロー)。

1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回。以後、1990年代グレート・コキーナブルー・ブレイザーバンピーロ・カサノバヤマトブラック・マジックミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた。

日本での活躍

1978年3月の初来日以降、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となって活躍。藤波辰巳とは1977年の藤波のメキシコ初遠征以来の因縁があり、日本とメキシコを股にかけて抗争を展開した。1979年4月の再来日ではMSGシリーズ第2回大会に出場、予選トーナメントで藤原喜明に2勝して決勝リーグに進出した。1981年11月の来日では初代タイガーマスクとも対戦。1983年5月にはIWGP決勝リーグ戦に中南米代表として出場している。年末に開催されていたタッグリーグ戦には、1981年にスペル・マキナ、1982年ペロ・アグアヨ1985年ドス・カラスと組んで出場した。

1992年にはW★INGプロモーションに来日、ミル・マスカラスとの日本における初対決が実現し、マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座とカネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。1995年にはレッスル夢ファクトリーの旗揚げ興行に参戦している。

2001年12月23日、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代打として久々に来日し、総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦し、1ラウンド4分55秒、パウンドでTKO勝ちを収めた。

Wikipediaより

 
 
 
 
 

CACAO製 ドスカラス 本人使用済みです。

平成12年(2000年)発売 カカオプランニングの「SKY HIGH 2000 ドスミル PART2・PART3」VHS表紙の撮影で本人使用。

平成12年(2000年)5月4日 東京・後楽園ホール SKY HIGH 2000 ミル・マスカラス、ドスカラス組vsグラン・マルクスjr、ピラタ・モルガン組戦で本人使用したマスクと同一仕様。

タグ付き、着用写真、「SKY HIGH 2000 ドスミル PART3VHS、パンフレット付き。

 

ドス・カラスDos Caras1951年2月20日 - )は、メキシコ覆面レスラーサン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。本名はホセ・ルイス・ロドリゲス・アレジャーノJosé Luis Rodríguez Arellano)、愛称はペペPepe)。

同じく覆面レスラーとして活躍したミル・マスカラスエル・シコデリコの実弟。息子のアルベルト・ロドリゲスギジェルモ・ロドリゲスプロレスラーである。

来歴

少年時代よりボディビルに打ち込み、16歳でミスター・オリンピアの新人賞を獲得。兄のアロン(ミル・マスカラス)やパブロ(エル・シコデリコ)に続いてミスター・サン・ルイス・ポトシにも戴冠した。その後、ボディビルのインストラクターを務めながら1968年よりゴリー・メディナのもとでルチャのトレーニングを積み、1970年1月にデビュー。リングネームを付けるにあたってプロモーターからいくつかの名前のリストを提示されたところ、人間の二面性(喜びと怒り)を自身のキャラクターに表現すべく、「2つの顔」を意味するドス・カラスを選んだ。

デビュー当時の覆面も怒顔や笑顔をデザインしたものを被っていたが、これは不評だったという。そこで1971年夏、兄マスカラスが2回目の日本遠征から帰国した際、日本の専門誌『月刊ゴング』が企画したマスカラスのマスクデザイン・コンクールに寄せられた読者のハガキの束をドス・カラスに渡し、その中から気に入ったものを選ぶよう助言。ドス・カラスはそこから双頭の鷲がデザインされた覆面を選び出し、以降自身のマスクとした。彼はそのハガキを、現在でも大切に保管しているという。

1970年代前半は、マスカラスのアメリカでの主戦場でもあったテキサス州サンアントニオに遠征し、ホセ・ロザリオとのタッグで活動。1975年からは、EMLLを脱退したフランシスコ・フローレスが旗揚げしたLLIに参戦。以降メキシコでの主戦場をLLIに移し、1978年6月20日、カネックを破りナショナル・ライトヘビー級王座を獲得した。

同年8月、全日本プロレスに初来日。8月24日の田園コロシアム大会において、兄マスカラスとのマスカラス・ブラザーズジャイアント馬場&ジャンボ鶴田インターナショナル・タッグ王座に挑戦、好勝負を残した。翌1979年3月は単独で再来日して『第7回チャンピオン・カーニバル』に出場。同年の末にはマスカラス・ブラザーズとして『'79世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦、ザ・ファンクスアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークと熱戦を展開した。

以降も全日本プロレスの常連外国人選手となり、1980年2月の来日時は、大先輩ドクトル・ワグナーとの「UWAメキシコ・ライトヘビー級選手権」と銘打たれた架空のタイトルマッチが実現、技巧戦の末に勝利を収めた。同年8月の来日時にはマスカラスと組んでPWF杯争奪タッグトーナメントの第1回大会に出場、1回戦でクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・スタイガー、2回戦で極道コンビ、決勝でザ・デストロイヤー&ザ・クルーザーを破り、優勝を果たした。翌1981年8月に行われた第2回大会にもマスカラス・ブラザーズとして出場、決勝でリッキー・スティムボート&チャボ・ゲレロを下して2連覇を遂げた。

1983年2月25日には愛知県体育館にて、当時大仁田厚が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦。同年11月開幕の『'83世界最強タッグ決定リーグ戦』にもマスカラスとの兄弟タッグチームで参加し、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディミラクルパワーコンビタイガー・ジェット・シン&上田馬之助の凶悪コンビとも対戦、これが昭和期の全日本プロレスへの最後の来日となった。

1984年2月26日、エンリケ・ベラからUWA世界ヘビー級王座を奪取。1985年1月20日にはUWAの総本山エル・トレオにてスタン・ハンセンとシングルマッチで対戦、テクニコに転向した宿敵カネックともタッグを組み、翌週の『UWA10周年記念興行』にてハンセン&ベビー・フェイス(ホセ・グアダルーペ・フェンテス)のチームを破った。

同年より新日本プロレスへ転出し、11月開幕の『IWGPタッグ・リーグ戦』にカネックとのコンビで参加。藤波辰巳とのシングルマッチも実現したが、リーグ戦はアントニオ猪木&坂口征二、藤波&木村健悟、ブロディ&ジミー・スヌーカディック・マードック&マスクド・スーパースターなどのチームを相手に1勝4敗2分けで参加8チーム中6位の戦績で終わった。翌1986年5月の再来日ではザ・コブラとの試合で左腕を負傷、途中帰国を余儀なくされている。

以後、しばらく来日は途絶えることとなったが、1986年はEMLLのリングにも登場し、1月28日にビジャノ3号&ビジャノ5号と組んでロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロエル・ブラソブラソ・デ・プラタ)からナショナル・トリオ王座を奪取。同年12月30日にはカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を再び獲得している。1989年にはWWAの世界ヘビー級王者にも認定された。

1990年代に入り、日本へはW★INGユニバーサル・プロレスリングWARなどインディー系の団体に参戦。1995年7月にはみちのくプロレスに来日、『第1回ふく面ワールドリーグ戦』でザ・グレート・サスケを破り優勝した。

1992年2月2日、カネックからUWA世界ヘビー級王座を奪取して同タイトルへの3度目の戴冠を果たすも、AAAの出現などでLLIは崩壊寸前となり、1994年10月よりCMLLに移籍。1996年3月22日にはエクトール・ガルサラ・フィエラをパートナーにCMLL世界トリオ王座を獲得した。しかし、1997年6月にAAAから選手を借り受けて単独興行を主催したことによりCMLLを解雇され、以降は準レギュラーのポジションでAAAに出場。2000年9月にデビューしたドス・カラス・ジュニアとも親子タッグを結成した。

2002年7月、全日本プロレスへの約19年ぶりの来日が実現。かつての全日本マットで「夏の風物詩」と謳われたマスカラス・ブラザーズを再結成し、武藤敬司ともタッグを組んだ。セミリタイア後の2010年5月8日には、WWEメキシコシティでの興行にスペシャルゲストとして登場、チャボ・ゲレロ・ジュニアを相手に凱旋試合を行うドス・カラス・ジュニアをリング上から紹介した。

 

Wikipediaより

 

 

 

TJ製 本人使用済みです。

平成21年(2009年)7月4日 『流星フェスタ新木場ファーストリング マスクド・スーパースター、スーパーストロングマシン組対四代目タイガーマスク、ミステル・カカオ組戦にて本人使用。
直筆サイン入り、着用写真付。
大会ポスター&大会パンフレット&試合掲載雑誌(共に直筆サイン入)、市販DVD(2種)付き。
 
 
 
 
 
 

本人使用

当時物で、試合で長州力に目の部分が破かれています。

平成2年(1990年)2月10日 新日プロ 東京ドーム ビッグバン・ベイダー対スタン・ハンセン

平成2年(1990年)4月27日 新日プロ「新闘強STATION BAY N.K」東京ベイNKホール ビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン ・ビガロ対北尾光司、長州力組で使用。

 

以下参考画像

 

本人使用済みです。

TJ製。

坂口征二戦モデル。

平成23年(2011年)7月4日 『流星仮面FIESTA・FINAL』東京・新木場1st マスクド・スーパースター、初代タイガーマスク組対藤原喜明、五代目ブラック・タイガーマスク組戦にて本人使用。
直筆サイン入り、着用写真2枚、試合用パンフレット(直筆サイン入り)、直筆サイン色紙付。
引退試合収録DVD付。

ビル・イーディー

ビル・イーディーBill Eadie、本名:William Reid Eadie1947年12月27日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。 ペンシルベニア州ブラウンズビル出身。

現役選手時代はボロ・モンゴルBolo Mongol)、マスクド・スーパースターThe Masked Superstar)、デモリッション・アックスDemolition Ax)などのリングネームで活躍した。

来歴

ジム・クロケット・ジュニアの主宰するノースカロライナNWAミッドアトランティック地区覆面レスラーの "流星仮面マスクド・スーパースターThe Masked Superstar)に変身。グレート・マレンコマネージャーに付けて頭角を現す。1977年3月には新日本プロレスの第4回ワールドリーグ戦に来日。公式戦では坂口征二から勝利を収め、アントニオ猪木ジョニー・パワーズの辞退もあり全勝でトップ通過する活躍を見せたが、優勝戦では坂口に敗れた。なお、同リーグ戦にはジートの初代パートナーだったベポ・モンゴルことニコリ・ボルコフも参加しており、両者は公式戦で対戦している。大型外国人対決としても注目されたが、当時はすでにイーディーの方が格上であり、フォール勝ちを収めている。

以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、1978年3月の来日時はマネージャーのマレンコを帯同し、3月30日に蔵前国技館で猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1979年9月6日には福岡スポーツセンターにて、坂口の北米ヘビー級王座にも挑んだ。1981年8月6日、蔵前国技館での猪木との「賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ」に敗れて覆面を剥がされたため、同年10月には素顔でビリー・クラッシャーBilly Crusher)と名乗って来日していたが、ほとぼりが冷めるとマスクド・スーパースターに戻った(以後、1984年8月の新日本のパキスタン遠征にもビリー・クラッシャー名義で参加しているが、1981年8月の猪木との覆面剥ぎマッチでは、覆面を剥がされた直後にタオルで顔を隠して逃走するなど素顔を完全に晒していなかったこともあり、ビリー・クラッシャーとマスクド・スーパースターが同一人物であることは公表されなかった)。1982年9月21日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が獲得したWWFインターナショナル・ヘビー級王座の初防衛戦の挑戦者を務めた。

IWGPリーグ戦には1985年から1986年まで2年連続で参加。年末のタッグリーグ戦でもディック・マードックとのコンビで上位に食い込む活躍を残している。また、1985年8月にはスーパー・マシーンSuper Machine)としてマシーン軍団に加入、アンドレ・ザ・ジャイアントのジャイアント・マシーンとコンビを結成した。スーパー・マシーンは覆面レスラー史上にも稀な「正体も覆面レスラーの覆面レスラー」ということになる。

マスクド・スーパースターに変身後のアメリカマットでは、トップクラスのヒールとして主にNWA南部テリトリーを中心に活躍。ミッドアトランティックではマイティ・イゴールワフー・マクダニエルブラックジャック・マリガンと抗争を繰り広げ、1980年4月にはトーナメント決勝でマリガンを破り、空位となっていたTV王座を獲得。ビッグ・ジョン・スタッドをマスクド・スーパースター2号に変身させ[16]、マリガン&アンドレ・ザ・ジャイアントとの大型タッグ対決も行われた。同年下期からは一時的にベビーフェイスに転向し、リッキー・スティムボートともタッグを組んだこともある。フェイスターン中はポール・ジョーンズをパートナーに、レイ・スティーブンス&ジミー・スヌーカ、スティーブンス&イワン・コロフミネソタ・レッキング・クルージン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンなどのチームとミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を争った。

他地区では、1980年にテネシー州メンフィスCWAに出場、4月28日のミッドサウス・コロシアムでのメインイベントでは、前王者ジェリー・ローラーの返上で空位となっていたCWA世界ヘビー級王座をビル・ロビンソンと争った。1981年にはフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWにて、ケン・パテラを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得したとされている。

近年のホームタウンでもあるジョージアGCWジム・バーネット主宰)では1970年代末から1980年代初頭にかけて、トミー・リッチとの遺恨マッチやミスター・レスリング2号との覆面レスラー同士の抗争を展開したほか、スタン・ハンセンとも何度となく対戦している。ハンセンとはタッグを組んだこともあるが、日本において両者の対戦やタッグチームが実現することはなかった。1981年8月15日にはスティーブ・オルソノスキーを破り、前年10月に新設されたNWAナショナル・ヘビー級王座を獲得[、翌月の9月12日にはリッチからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取して、ナショナル王座と統一させている。戴冠中の同月22日には、リック・フレアーNWA世界ヘビー級王座に挑戦。翌1982年もリッチやポール・オーンドーフを相手にナショナル王座を争い、GCWのフラッグシップ・タイトルとなった同王座を通算3回獲得した。

1983年下期、グラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWFに登場。ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、10月17日と11月21日の2カ月連続で当時のWWF王者ボブ・バックランドに挑戦、初戦ではリングアウト勝ちを収めている。翌1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの体制下でスタートした全米侵攻にも、スタッド、オーンドーフ、ロディ・パイパーらと共にヒールの主力メンバーとして参加し、同年2月10日にはNWAの本拠地であったセントルイスキール・オーディトリアムにて、新WWF王者ハルク・ホーガンの初防衛戦の相手を務めた(この試合は、WWFの全米侵攻第1弾のメインイベントでもあった)。

WWF離脱後は一時ジョージアに戻り、キングコング・バンディと組んで1984年5月6日にロード・ウォリアーズからNWAナショナル・タッグ王座を奪取[30]。同年下期にはスチュ・ハートの運営するカナダカルガリー地区のスタンピード・レスリングにおいて、ニック・ボックウィンクルを破ったとして、同地区で新設されたIWA世界ヘビー級王座のチャンピオンに認定されている[31]。その後はAWAに進出し、ミスター・サイトーの用心棒的なヒールとなって、WWFでも因縁のあったサージェント・スロータージェリー・ブラックウェルと抗争した。

1986年の上期はビル・ワットの主宰する中南部のMSWAに出場、新日本プロレスでのパートナーだったマードックと組み、テッド・デビアススティーブ・ウィリアムスジム・ドゥガンらと対戦した(MSWAでは、ジン・キニスキーの息子ケリー・キニスキーがマスクド・スーパースター2号に変身していた)。同年はフロリダ地区にも参戦し、7月22日にレックス・ルガーからNWA南部ヘビー級王座を奪取している[34]。親友でもあるディノ・ブラボーの招きにより、カナダのモントリオール地区でも活動した。

マスクド・スーパースター名義としては1976年から約10年間に渡って活躍した。覆面レスラーのギミックは短命に終わる場合の多い米マット界においては異例のキャラクター寿命を誇り、日本マットに定着したザ・デストロイヤーを除くと、ミスター・レスリング1号&2号、ザ・スポイラー(スーパー・デストロイヤー)などと並ぶ、アメリカのマスクマンの代表格だった。

1986年の後半からは前述のマシーン軍団の一員、スーパー・マシーンとしてWWFと再契約。NWA時代のライバルでもあったマリガン=ビッグ・マシーンも加わり、日本からやって来たベビーフェイスのマスクマン軍団として売り出される。

2009年7月、久々の来日が実現。7月4日に新木場1stRINGにて『流星仮面FIESTA』と題された記念大会が覆面MANIAの後援で開催され、スーパー・ストロング・マシーンと組んでミステル・カカオ&4代目タイガーマスクと対戦した。7月5日には新日本プロレスの後楽園ホール大会に登場して挨拶を行っている。

2011年7月には、少年犯罪者更生に向けてのチャリティー活動の一環として、東京と大阪での引退ツアーが開催された。大阪プロレスの主催による7月15日の『流星仮面Osaka FINAL』では6人タッグマッチで藤波辰爾と対戦[44]。7月17日に新木場1stRINGで行われた『流星仮面FIESTA・FINAL』では、メインイベントの引退試合に初代タイガーマスクとのタッグチームで出場、藤原喜明&ブラック・タイガーVから勝利を収めた。

その後は2012年3月31日、フロリダ州マイアミビーチで行われたプロレスリング・スーパースターズ主催の "Tribute To Championship Wrestling From Florida" に出場、メインイベントの8人タッグチーム・エリミネーション・マッチにおいて、ロン・バスラリー・ズビスコらと組み、マイク・グラハムブライアン・ブレアーカルロス・コロンラニー・ポッフォ組と対戦した[

Wikipediaより