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TJ製。
坂口征二戦モデル。
ビル・イーディー
来歴
ジム・クロケット・ジュニアの主宰するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区で覆面レスラーの "流星仮面" マスクド・スーパースター(The Masked Superstar)に変身。グレート・マレンコをマネージャーに付けて頭角を現す。1977年3月には新日本プロレスの第4回ワールドリーグ戦に来日。公式戦では坂口征二から勝利を収め、アントニオ猪木とジョニー・パワーズの辞退もあり全勝でトップ通過する活躍を見せたが、優勝戦では坂口に敗れた。なお、同リーグ戦にはジートの初代パートナーだったベポ・モンゴルことニコリ・ボルコフも参加しており、両者は公式戦で対戦している。大型外国人対決としても注目されたが、当時はすでにイーディーの方が格上であり、フォール勝ちを収めている。
以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、1978年3月の来日時はマネージャーのマレンコを帯同し、3月30日に蔵前国技館で猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1979年9月6日には福岡スポーツセンターにて、坂口の北米ヘビー級王座にも挑んだ。1981年8月6日、蔵前国技館での猪木との「賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ」に敗れて覆面を剥がされたため、同年10月には素顔でビリー・クラッシャー(Billy Crusher)と名乗って来日していたが、ほとぼりが冷めるとマスクド・スーパースターに戻った(以後、1984年8月の新日本のパキスタン遠征にもビリー・クラッシャー名義で参加しているが、1981年8月の猪木との覆面剥ぎマッチでは、覆面を剥がされた直後にタオルで顔を隠して逃走するなど素顔を完全に晒していなかったこともあり、ビリー・クラッシャーとマスクド・スーパースターが同一人物であることは公表されなかった)。1982年9月21日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が獲得したWWFインターナショナル・ヘビー級王座の初防衛戦の挑戦者を務めた。
IWGPリーグ戦には1985年から1986年まで2年連続で参加。年末のタッグリーグ戦でもディック・マードックとのコンビで上位に食い込む活躍を残している。また、1985年8月にはスーパー・マシーン(Super Machine)としてマシーン軍団に加入、アンドレ・ザ・ジャイアントのジャイアント・マシーンとコンビを結成した。スーパー・マシーンは覆面レスラー史上にも稀な「正体も覆面レスラーの覆面レスラー」ということになる。
マスクド・スーパースターに変身後のアメリカマットでは、トップクラスのヒールとして主にNWAの南部テリトリーを中心に活躍。ミッドアトランティックではマイティ・イゴール、ワフー・マクダニエル、ブラックジャック・マリガンと抗争を繰り広げ、1980年4月にはトーナメント決勝でマリガンを破り、空位となっていたTV王座を獲得。ビッグ・ジョン・スタッドをマスクド・スーパースター2号に変身させ[16]、マリガン&アンドレ・ザ・ジャイアントとの大型タッグ対決も行われた。同年下期からは一時的にベビーフェイスに転向し、リッキー・スティムボートともタッグを組んだこともある。フェイスターン中はポール・ジョーンズをパートナーに、レイ・スティーブンス&ジミー・スヌーカ、スティーブンス&イワン・コロフ、ミネソタ・レッキング・クルーのジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンなどのチームとミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を争った。
他地区では、1980年にテネシー州メンフィスのCWAに出場、4月28日のミッドサウス・コロシアムでのメインイベントでは、前王者ジェリー・ローラーの返上で空位となっていたCWA世界ヘビー級王座をビル・ロビンソンと争った。1981年にはフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWにて、ケン・パテラを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得したとされている。
近年のホームタウンでもあるジョージアのGCW(ジム・バーネット主宰)では1970年代末から1980年代初頭にかけて、トミー・リッチとの遺恨マッチやミスター・レスリング2号との覆面レスラー同士の抗争を展開したほか、スタン・ハンセンとも何度となく対戦している。ハンセンとはタッグを組んだこともあるが、日本において両者の対戦やタッグチームが実現することはなかった。1981年8月15日にはスティーブ・オルソノスキーを破り、前年10月に新設されたNWAナショナル・ヘビー級王座を獲得[、翌月の9月12日にはリッチからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取して、ナショナル王座と統一させている。戴冠中の同月22日には、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。翌1982年もリッチやポール・オーンドーフを相手にナショナル王座を争い、GCWのフラッグシップ・タイトルとなった同王座を通算3回獲得した。
1983年下期、グラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWFに登場。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、10月17日と11月21日の2カ月連続で当時のWWF王者ボブ・バックランドに挑戦、初戦ではリングアウト勝ちを収めている。翌1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの体制下でスタートした全米侵攻にも、スタッド、オーンドーフ、ロディ・パイパーらと共にヒールの主力メンバーとして参加し、同年2月10日にはNWAの本拠地であったセントルイスのキール・オーディトリアムにて、新WWF王者ハルク・ホーガンの初防衛戦の相手を務めた(この試合は、WWFの全米侵攻第1弾のメインイベントでもあった)。
WWF離脱後は一時ジョージアに戻り、キングコング・バンディと組んで1984年5月6日にロード・ウォリアーズからNWAナショナル・タッグ王座を奪取[30]。同年下期にはスチュ・ハートの運営するカナダ・カルガリー地区のスタンピード・レスリングにおいて、ニック・ボックウィンクルを破ったとして、同地区で新設されたIWA世界ヘビー級王座のチャンピオンに認定されている[31]。その後はAWAに進出し、ミスター・サイトーの用心棒的なヒールとなって、WWFでも因縁のあったサージェント・スローターやジェリー・ブラックウェルと抗争した。
1986年の上期はビル・ワットの主宰する中南部のMSWAに出場、新日本プロレスでのパートナーだったマードックと組み、テッド・デビアス、スティーブ・ウィリアムス、ジム・ドゥガンらと対戦した(MSWAでは、ジン・キニスキーの息子ケリー・キニスキーがマスクド・スーパースター2号に変身していた)。同年はフロリダ地区にも参戦し、7月22日にレックス・ルガーからNWA南部ヘビー級王座を奪取している[34]。親友でもあるディノ・ブラボーの招きにより、カナダのモントリオール地区でも活動した。
マスクド・スーパースター名義としては1976年から約10年間に渡って活躍した。覆面レスラーのギミックは短命に終わる場合の多い米マット界においては異例のキャラクター寿命を誇り、日本マットに定着したザ・デストロイヤーを除くと、ミスター・レスリング1号&2号、ザ・スポイラー(スーパー・デストロイヤー)などと並ぶ、アメリカのマスクマンの代表格だった。
1986年の後半からは前述のマシーン軍団の一員、スーパー・マシーンとしてWWFと再契約。NWA時代のライバルでもあったマリガン=ビッグ・マシーンも加わり、日本からやって来たベビーフェイスのマスクマン軍団として売り出される。
2009年7月、久々の来日が実現。7月4日に新木場1stRINGにて『流星仮面FIESTA』と題された記念大会が覆面MANIAの後援で開催され、スーパー・ストロング・マシーンと組んでミステル・カカオ&4代目タイガーマスクと対戦した。7月5日には新日本プロレスの後楽園ホール大会に登場して挨拶を行っている。
2011年7月には、少年犯罪者更生に向けてのチャリティー活動の一環として、東京と大阪での引退ツアーが開催された。大阪プロレスの主催による7月15日の『流星仮面Osaka FINAL』では6人タッグマッチで藤波辰爾と対戦[44]。7月17日に新木場1stRINGで行われた『流星仮面FIESTA・FINAL』では、メインイベントの引退試合に初代タイガーマスクとのタッグチームで出場、藤原喜明&ブラック・タイガーVから勝利を収めた。
その後は2012年3月31日、フロリダ州マイアミビーチで行われたプロレスリング・スーパースターズ主催の "Tribute To Championship Wrestling From Florida" に出場、メインイベントの8人タッグチーム・エリミネーション・マッチにおいて、ロン・バスやラリー・ズビスコらと組み、マイク・グラハム、ブライアン・ブレアー、カルロス・コロン、ラニー・ポッフォ組と対戦した[。
Wikipediaより