【売却済】 ティファナ製 シコデリコ 本人着用 直筆サイン入 | 『大激闘マッドポリス/特命受験生』

『大激闘マッドポリス/特命受験生』

2025年、毎日ブラブラして人一倍やる気のない、まっちゃんは突然、猛省。今の目標は法律系の資格では一番に難しい司法試験の一発合格である。試験委員は勉強をなめている、まっちゃんを「命知らずの受験生」と呼び恐れおののいていた。

ティファナ製 カレンダリオ・アステカモデル 本人着用済みです。 
着用写真、直筆サイン入り。

本人が着用した明確な日時、場所等は不明です。

 

エル・シコデリコEl Sicodélico)のリングネームで知られるパブロ・ロドリゲスPablo Rodríguez1940年 - )は、メキシコの元プロレスラー

 

ミル・マスカラスの実弟、ドス・カラスの実兄であり、彼らと同じくテクニコ覆面レスラーとして活動したが、キャリア晩年はルードに転じた。長男のイホ・デル・シコデリコと次男のシコデリコ・ジュニアもプロレスラーである。

来歴

兄アロン・ロドリゲス(ミル・マスカラス)の影響で少年時代からボディビルに打ち込み、ディアブロ・ベラスコのジムでトレーニングを積んだ後、1968年ハリスコ州グアダラハラでデビュー。ボディビルで鍛え上げた肉体を武器に、アルゼンチン・バックブリーカーなどの力技を用いるヘビー級のパワーファイターとしてキャリアを積んだ。

1971年6月、マスカラスが主戦場としていたアメリカ西海岸ロサンゼルス地区に登場。マスカラスとの兄弟コンビでキンジ渋谷&マサ斎藤NWAアメリカス・タッグ王座に挑戦し、マスカラスの抗争相手だったジョン・トロスとも対戦した。同年末、日本プロレスに来日し、ボボ・ブラジルザ・ストンパージン・アンダーソンらと共に、年明け1972年1月の『新春チャンピオン・シリーズ』に参戦。「ミル・マスカラスの弟」として注目を集めたが、キャリア不足を露呈し戦績は芳しくなく、期待を裏切る結果となった。

以後、メキシコのEMLLを主戦場にしつつ、1973年からはアメリカ南部にも遠征。ジョージアではパンテラ・ネグラをパートナーに、ボブ・アームストロングシャチ横内ターザン・タイラーブッチャー・ブラニガンらとタッグマッチで対戦。2月27日に行われたジョージア・チャンピオンシップ・レスリング認定のNWAメイコン・タッグ王座決定トーナメントには、ビクター・リベラと組んで出場した。フロリダではロベルト・ソトとのコンビで活動し、クリス・マルコフともシングルマッチで対戦している。テキサス州サンアントニオでは再びマスカラスのパートナーとなり、ロサンゼルスでも抗争したエル・ゴリアス&ブラック・ゴードマンのインターナショナル・タッグ王座に挑戦するも、ここでも戴冠を果たすことはなかった。

その間にはロサンゼルスに居住し、宿敵ゴードマンの夫人の妹と結婚して2児(イホ・デル・シコデリコシコデリコ・ジュニア)をもうけ、1970年代後半にアメリカ合衆国グリーンカードを取得、セミリタイアしてアイスクリーム・ショップを開業した。試合にも時折出場し、1980年にはテキサス州ヒューストンでのWCCWの興行にて、ジノ・ヘルナンデスキラー・ブルックスと対戦している。

事業から撤退後、1984年プエルトリコにて復帰、以降はメキシコシティに戻り、1986年は弟のドス・カラスとタッグを組んで活動、マスカラスを加えたトリオでロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロエル・ブラソブラソ・デ・プラタ)との3兄弟抗争も行われた。

1989年ティフアナWWAにてサンドカン&カオスをパートナーに世界トリオ王座を獲得[1][14]1992年にはAAAの旗揚げに参加、当初はテクニコのポジションだったが、エース格のコナンと仲間割れしてルードに転向。以降、コナンとの抗争アングルが組まれマスカラ・コントラ・カベジェラも予定されていたが、競合団体EMLLの妨害でショーは中止となり、彼自身もAAAを解雇された。

当時の彼は体重が125kgにまで増加しており、その後も現役を続けるも古傷の右膝を悪化させ、1996年に引退した。近年はアメリカのサンアントニオに定住し、中古車販売業に携わっている。

Wikipediaより