前回の続きです。
言葉や文章を使うということは、言語の規則に従うということでもあるので、
いろいろ表現しようとすると規則による制約の中だけでやらなければならず、不自由さを感じさせられますが、
芸術的な使い方をすることで、規則から離れて自由に表現する可能性が出てきます。
これはある意味、視点を変えるということでもあります。
今までとは違う、もっと広い範囲から「言語の使い方」を見るというような。
規則の中だけでは表現するのが難しかった感動を伝えることも、
読み手の想像力を刺激する書き方をすることで、可能になってきます。
話は変わりますが、
過去記事で、与謝蕪村の俳句を取り上げたことがあるのですが、いい例なので持ってきました。
江戸時代中期の俳人で、画家でもある彼の句は絵画的・空間的であると言われます。
少ない文字数の中で、五月雨(さみだれ)の風景を浮かび上がらせています。どんな風景を想像するかは人それぞれですね。
さみだれイコール五月雨ということを知っているかどうかでも、違ってきます。
人によって創造するものが違うということと、言葉でイメージを表現することができるということがよくわかる一例です。
私が以前、読みあさった与謝蕪村の句に対する評論の中に
「絵画で表すより言葉である俳句のほうが、色彩豊かな気がする」というのがあったのですが、
人によってはそうかもしれない、というのが私個人の意見です。その人が持っている色彩に関する感覚知識によるのではないかと。
もしも赤と白と青しか見たことのない人だったら、やっぱりその三色しか浮かばないのではないでしょうか。
以前、どこかのWEB記事で読んだのですが、
人は、自分の記憶の中にないものについては目に入る範囲にあっても知覚できないそうです。
例えば、自分の真上の空をたくさんの幾何学図形が泳いでいたとしても、その人が見たことのない図形は見ることができない。
自分が知っている幾何学図形だけが知覚できる、というのです。
・・・私はこの説が書いてあったWEBサイトがどれだったか忘れてしまったのがとても残念なのですが、
自分の存在するこの世界は自分が作り上げたものだという点からすると、そうなのかもしれません。
知らないものは創造しようがないですから。
それなら私たちが普段見ているものは、どれも自分の記憶にあるからこそ見えているのだということになります。
たぶんそれは今回の人生だけでなく、もっともっと過去の、遥か昔にさかのぼった記憶も含めてのことなのでしょう。
それで思い出したのが、万葉集の中のある和歌です。
この歌の中に出てくるそらみつというのは枕詞(まくらことば)で、大和の国の前に来るものと決まっている言葉のひとつです。
そらみつ大和の国 = 空から見る大和の国 というわけで、大空から見下ろした偉大な大和の国をイメージさせる表現ということになっていますが、
飛行機のなかったはずの時代に、どうやって空から見た我が国を想像したんでしょう。
「日本書紀 神武」に饒速日命(にぎはやひのみこと)が大空から大和(やまと)の国を見たという記述があるそうで、
非常に想像力をかきたてられる話ではあります。
きっと遥かな昔には、今の常識をくつがえすような出来事もあったのでしょう。私たちはそれを忘れていますが、記憶の奥底に眠らせているだけなのかもしれません。
今の時代に生きる私たちがそらみつ大和の国を思い浮かべようとすると、
テレビや本、WEB上の写真などで見たものがたくさん浮かんできてしまうのが、なんとも残念です。
知識や情報は便利だけれど、それに埋もれて生きている私たちは、どれが自身の体験による本来の記憶だかわからなくなってしまっていますね。
テレビもWEBもなかった古代の人たちは、自分自身で知覚した純粋な記憶を持っていたわけです。ちょっとうらやましい気がしないでしょうか。
たまには外部から来る知識や情報を遮断して自分自身に向かうのも必要だなと、改めて思います。
時間をやりくりして自然の中で一人静かに過ごせば、
埋もれていた本当の記憶・自分の知っている風景が出てくるかもしれません。
・・・文学の記事はまだ続きます。
